旅する編集人Ⅰの続きです。2022年11月以降を掲載しています。
①国内の旅 2022年11月『関西旅行Ⅲ』
今年3回目の関西行きです。11月にしたのは、紅葉の関西を旅したかったからです。
11月27日(日) 晴れ
この日は、東京を午後からの出発で、新幹線で新大阪へと向かい、新快速に乗り換えJR芦屋に至りました。夕飯は節約のつもりで、駅北口のビルに入るスーパー、「コープ神戸」を利用。手ごろな巻きずしとかを調達し、そのままバスに乗車。長男の待つ芦屋浜団地へと向かいました。長男も家で簡単な調理をして、慎ましく暮らしていました。勘ぐるに、近く所帯をもつつもりなので倹約を図っていたのかもしれません。我々が寝る部屋には暖房はありませんが、気密性のある団地なので居間のエアコンの空気を回してもらい、安眠出来ました。
11月28日(月) この日も晴れ 穏やかな晩秋の一日
この日は、京都への日帰り遠足。おなじみの阪急電車を利用しました。芦屋川駅から十三(じゅうそう)乗り換えで、京都線の終点「京都河原町」へと向かいます。地上に出てそのまま四条通りを行くと、鴨川を渡る所で川向うにはおなじみの南座が見えました。橋を渡った所で、再び地下に潜り京阪電車のホームに立ち、先ずは東福寺駅をめざします。この日の目的地は、紅葉が自慢の東福寺の境内。この駅から歩いて数分と言うところ。ここを訪れようと思ったきっかけは、妻が女優の沢口靖子さんのファンで、映画『科捜研の女-劇場版-』を見た時、ラストシーンでこの寺の通天橋が使われていたので、ぜひ見ておこうと言うことになったのです。私もかねてからモミジの寺として東福寺に行ってみたかったこともありました。北から入り口を目指すと、臥雲(がうん)橋という木橋を渡るところで、境内の紅葉が望まれました。そしてこの禅寺の正門と言って良い日下門に至ります。中に入るとモミジの通天橋とその周辺が、有料区画になっていて客が列をなしていました。入ってすぐの園地から、モミジの色彩にため息がもれました。寺側はこの時期、回遊の路を一方通行にしてさばいていました。間もなく下り坂になって洗玉澗と呼ぶ谷間に降ります。見上げるとそこに谷をまたぐ通天橋が望まれました。
その谷を渡ると明るい台地に先ずは八角形の朱に塗られた愛染堂。その前でスマホの写真に納まる若い女性たちが目立ちました。東手には屋根付きの回廊が伸びています。それをたどると、開創の聖一国師(しょういちこくし)を祀った開山堂の中庭へと導かれます。この建物の屋根の上に、伝衣(でんね)閣という楼閣が載っており、なかなか面白い造りになっていました。楼上には、布袋(ほてい)様の像が安置してあるとか・・・。来た道を戻って回廊をそのまま通天橋へと渡ります。この辺り、とても人が多く前に進むのも難渋しました。子ども連れの中国人家族が、はやりの和服の装いで楽しそうにしていました。橋の中央、映画の中で沢口さんが飛び降りた舞台から、下を恐る恐る覗いて見ました。撮影は下にネットでも張って行われたのでしょうが、とてもスリルを感じました。有料区画を出ました。11月末とは言え、十分に紅葉を楽しむことができました。
東福寺の大伽藍には幾つもの堂宇の間に幅広の空間がとってあります。たくさんの入場者がいるこの時期、そこに京都の土産や物産を扱うテントが並んでいて、ちょっとした買い物が楽しめます。妻はさっそく七味を売る店で品定めをしていました。昼を大分過ぎ、お腹がなっていました。そばと書いたのぼりの所に、「寄って行って下さい」と呼び込みの女性が立っていて、そのまま石畳の道を上がると寺の宗務部の建物(大慧殿)が臨時のお休み所になっていました。ここでお蕎麦の定食をいただきました。
日下門を入った所で本堂と対面 禅寺に特有の真壁づくりの白壁が目立ちます
紅葉は逆光にも映える 皆がスマホをかまえていました
⇓ 通天橋を過ぎた所に黄と紅の美しい光景が ⇓⇓聖一国師を祀る開山堂
東福寺からの帰り道、日下門から出てそのまま真っ直ぐに参道をとり、行き来た道ではないルートで、京阪の駅へと向かいます。狭い車道は、奈良と京都を結んだ「奈良街道」。やはり古い商家があって覗くと、これが『鶴屋弦月』という和菓子店。妻が餅菓子を買いました。京阪電車で、今度は逆方向に終点出町柳(でまちやなぎ)へと向かいます。地上に出ると、ここもまた鴨川沿い。ちょうど高野川と賀茂川が合流する一画。川べりに出ると、大石を繋いで西側へと渡りました。和菓子を買った連れは、この川越えには閉口していたよう・・・。
次に向かったのは今出川通りの少し先、京都御所に向かい合う同志社のキャンパスです。その前に女子大のキャンパスがあり、ここも同志社なので守衛さんの許しを得て校内の路を目指す同志社側へと出ました。ちょうどそこが禅の名刹、相国(しょうこく)寺の参道です。こういう所が京都らしい。しかもまず立ち寄ろうとしたのが、この参道沿いの瀟洒な洋館、アーモスト(Amherst)館。同志社関係者なら周知のことだと思いますが、創設者の新島襄が幕末にアメリカに渡り学んだのが、マサチューセッツのアーモスト大学。新島に関心のあった私もかつて結婚直後、連れと共にそのアーモストを訪ねた経験があったのです。この館は久しく、外国人研究者のゲストハウスとして使われていましたが、今の用途は知りません。この時もコロナのせいでしょう、立ち入りが厳しく規制され、見学はかないませんでした。アーモスト館。どう見てもニューイングランドの風情。 ⇓ 同志社礼拝堂 1886年竣工
参道の西側は同志社のメインキャンパスである今出川校地。授業日なので、入場はどうなのかと思いましたが、何とこの日は大学祭の日だそうで、堂々と入ることができました。ただし大学祭を意味するイブ(EVE)という表現に面くらいました。何でもイブとはこの学び舎の創立を祝う日なのだとか。今年は土曜からの三日間でこの日が最終日でした。京都に来ると訪ねるのは、どうしても寺院仏閣に偏りがち。できれば、違う趣向ということで訪ねたのが、キャンパス内の重要文化財、「同志社礼拝堂」でした。しかし、授業日でないということはこちらも閉館ということで、外観のみの拝見と相成りました。学生たちが歓声を上げる中、入ったと反対の烏丸通りへと出ました。
もう3時半近くになっていました。この日は嵯峨野の紅葉も見たかったので、市バスに乗り、今出川通りから西大路へと入り、JR円町の近くまで乗車。ここでうまく亀岡方面の列車をつかまえ、嵯峨嵐山駅へと繋がりました。そこまでは良かったのですが、紅葉の名所祇王寺へと行くには、30分近く歩かなければなりません。日も大分傾いて来ていました。しかも行く手は緩やかですが上りの道です。そこで祇王寺は諦め、手前にあるやはり紅葉が有名な常寂光寺のお庭を拝見することにしました。風情ある小ぶりの山門をくぐります。ここもモミジの寺としては、素晴らしい所でした。歌に詠われた小倉山を背後に控えるこの地は、とにかく緑が濃い。その緑が今は紅色でおおわれています。石段を上がると南東方向に京の市街地が望まれます。参拝者は多いものの、それでも静寂なお庭で、秋の夕暮れを楽しみました。
⇓常寂光寺の仁王門の門前 夕方の光で淡い ⇓⇓本堂脇の妙見堂 モミジに隠れる
さて帰りは、真っ直ぐ南に嵐山方面へと進みます。嵯峨野のシンボルと言って良い竹林の小路です。右手に何やら洒落た洋館が・・・。カフェと書いてありますが、あいにく5時を回っていました。こちらが逡巡していると、奥からご婦人が出て来て、「ご覧になってください」と招くのです。『アイトワ(aightowa)』と言う名のカフェと人形工房を兼ねた施設でした。アイトワとは、愛は永遠にという造語のようですが、この人の旦那さんが半世紀以上かけて、この地を開墾し井戸を掘り、畑をつくり家を建てて店も営んで来た、一種のユートピアのような空間なのだと思います。エコロジーにこだわった自然なお庭がご自慢の様。二人してモノづくりに精を出し、婦人の方は人形作家として暮らしています。暖房は薪ストーヴと屋根にのせたソーラーパネル。薪は、敷地内と近くの外山から集めてきたものを使うそうです。私はすっかり、魅了されました。今度、季節を違えて来ようかと思いました。
嵯峨野の竹林の道を嵐山の賑わいの中心、嵐電の嵐山駅をめざします。JR嵯峨野線の踏切を越える頃には、すっかり日は落ち、人の往来だけを頼りに進みます。急に明るい府道に出たかと思うと、間もなく駅へと達しました。嵯峨野の地は、前から行きたい所でしたが、思った以上に魅力的な所でした。平安の御代以来、この地は王侯貴族の別荘地として利用されてきました。自然と緑が豊かな所で、リラックスできます。そのため、今でも京都人のリゾートとして使われています。しかも想像していた以上に広い土地です。祇王寺の先、あだし野念仏寺まで行こうものなら優に2㎞はあるでしょう。ここもじっくり時間をとって来るべき場所だと思いました。
11月29日(火) 曇り時々雨
こちらに来る前から、天気が崩れると聞いていたので、この日は大阪の都心に出て、街歩きにあてました。朝、阪神芦屋からそのまま梅田に出て、地下鉄御堂筋線に乗り換え、次の淀屋橋で早速下車。地上に出ると、そこは都心のビル街。雨上がりの街をしばし歩くと、幕末に緒方洪庵が蘭学塾を開いた「適塾」に着きます。そう、ここは適塾跡ではなく、高層ビルに取り囲まれながらも当時の商家のまま現存・保存された状態で残っています。敷地は、京の町屋に見られるような間口が狭く奥に長く、途中に明かり取りでもある中庭を囲みます。現在は国立大阪大学が管理していて、受付でそう書かれたパンフレットを受け取りました。1階の道路側にいきなり当時の教室が二部屋あります。それも想像以上に小さい6畳間です。中庭を挟んで奥へと進むと、そこは緒方家の居住スペース。そして洪庵の書斎などが配置されていました。洪庵は備中足守(岡山市北部)の出身。開設されていた幕末維新の約25年間に、総勢600名の塾生がいたと言います。長州山口に次いで、備中岡山の出身者が多かったそう。
⇓適塾正面。左右両隣だけ公園となっている。 ⇓⇓2階の塾生大部屋 一畳に1人のスペース
そこから2階に上ると、ズーフ部屋というカタカタ名の一室がありました。重そうな大部の本が置いてありました。ズーフとは、18世紀末から19世紀初めに長崎出島にいた商館長、ヘンドリック=ドゥーフが著した蘭和辞典だそうです。塾生の学びはこの辞典を使って蘭学書を訳すことがメインでしたから、一冊しかないこの辞書がいかに貴重だったかがわかります。そして道路側に戻って来ると、25畳はある大きめの部屋がありました。塾生はこの一畳で起居したそうです。どちらが上座になるのか分かりませんが、成績の優秀者から上席を与えられたと言います。豊後(大分県)の中津藩の下級武士だった福沢諭吉は、いつもその上席だったとか。塾生たちは、日本の近代化の胎動期をここで過ごした訳です。その意味で感慨深い場所だと思いました。
この日は、地下鉄御堂筋線の旅となりました。次に向かったのは、南下してJR大阪環状線の駅でもある天王寺駅へ。春の吉野行きの際も訪ねたところです。今回は真上の「阿倍野ハルカス」に昇ってみました。大阪平野が見下ろせれば良しとして、16階の空中庭園と17階のオフィス階ロビーまでエレベーターで上がりました。眺めは北側のみとなりますが、17階のファミマに入ると、眼下の阪堺電車が通る「あべの筋」が見下ろせて、南側の眺望も見ることができました。一服した後、地上に降りて、乗りもしないのに阪堺(はんかい)電車のホームに近づきます。しかし改札外からだと電車を見ることができません。気づいた駅務員の男性が、こちらからとホームを見られる側に誘導してくださいました。モダンな阪堺電車で堺に出かけたのは、6年前の冬。堺では、与謝野晶子の記念館や千利休の邸宅跡など、なかなか興味深い街並みを歩きました。
今度は御堂筋線を来た方向に戻り、「なんば」で下車。徒歩で「大阪のへそ」とも言える道頓堀川にかかる戎橋までやって来ました。川の向こうには例の「グリコの看板」が目にとまります。私らと同じような観光客が集まっている感じです。建築に関心のある私は、手前の道頓堀商店街の西にあるクラシックな洋館に目を留めました。夕方近く、辺りは暗くなって来たので、建物正面はライトアップされていました。なんば周辺のガヤガヤしたイメージにそぐわないこの建物は、大阪松竹座だそうです。何でも大正期にできた日本初のコンクリート造の劇場だったとか。今はその正面ファサードだけを残して、映画や演劇を上演する高層ビルとなっています。このミスマッチがおもしろい。
「あべのハルカス」から南方向、あべの筋を見下ろす

この日は、戎橋を越えてそのアーケードを大丸心斎橋店辺りまで歩き、再び御堂筋線の駅から梅田へと戻り、最後は妻がお気に入りの四葉のクローバーが目印の「阪神百貨店」に寄った後、地下の阪神電車に乗って芦屋へと帰宅しました。
11月30日(水) 晴れ時々曇り
最終日となりました。この日は、最後に姫路城を見てから帰京です。団地で長男を見送ってから、我々も阪神芦屋までバス。この道は途中、芦屋川が注ぐ海沿いの松林を抜けて行きます。開放的で気持ちの良い光景です。電車で三宮へ。まずは地下鉄北神線で新神戸へ。地上に出ると新幹線の駅舎が目の前に迫りますが、目的地は東側の神戸市立文書館。私が追っている戦時中の外交官、杉原千畝氏についての資料があるので、一度立ち寄って見たかったのです。因みに、春に出かけた神戸市立王子動物園に隣接した建物は、神戸市文学館。紛らわしい名前です。文書館もクラシックな建物です。学生時代、神戸に来た時に、午後の遅い時間でしたが、やはりこちらに来たことがあります。当時は文書館ではなく、市立南蛮美術館。あの有名なフランシスコ・ザヴィエル像を展示する建物でした。元は蒐集家池長孟(はじめ)氏の創設した池長美術館。私設だったせいでしょう、アールデコ風のユニークな外観です。神戸市立文書館 緑の屋根は熊内5丁目のバス停です
この資料館では、大概の物が閉架でしたので、予約もせず訪ねた今回は、杉原千畝が戦時中リトアニアから送り込んだユダヤ難民が神戸滞在中どうしていたのか、その手掛かりとなる資料の目録だけを閲覧するに留めました。妻には、道路を隔てて斜(はす)向かいのコンビニで時間をつぶしてもらいました。この後、そのまま新神戸駅をはさんで西側の北野町へと、坂を上ります。やはり学生時代の南蛮美術館訪問の際、こちらにも足を運んだことがあります。当時は、観光地と言うよりは私の様な洋館めぐりが好きな好事家ぐらいしか訪れない場所で、静かな住宅街でした。時折、朽ち果てそうなコロニアル・スタイルの建物の庭からニャオと野良猫のなく声が聞こえるような場所でした。その後の変貌ぶりは、今や神戸の観光スポットとして一二を争う場所になったことはご存知の通りです。
今回はその北野異人館街までは行かず、手前を左手に降ります。不動坂という道を降りていくと、途中から神戸電子専門学校の建物が左右に何棟も建つ一画がありました。こちらに来る前、神戸新聞に戦時中のユダヤ難民が共同で暮らしたという宿舎があると記事になっていました。そこに記念の案内板が建てられたと。目印は電子専門学校の隣だと・・・。しかし、どうも所在がわかりません。道行く人の中に学校職員と思しき人を見つけ尋ねてみると、わざわざそこに案内してくれました。大戦中の40年から41年にかけて、神戸に一時寄留したユダヤ難民は4500人を記録したといいます。当時、元々神戸に住んでいたユダヤ人の25家族が、これを受け容れるべく「ユダヤ共同体」を結成。宿舎等を提供しました。しかし何事にもお金はかかります。それを引き受けたのがニューヨークに本部があった「合同分配委員会(Joint)」でした。彼らが送金先として名指ししたのが、この「ユダヤ共同体(Jewcom)」で、以来ジューコムの通称が使われたと言います。ユダヤ難民を再び国外に送り出した後、宿舎は45年6月の神戸大空襲で焼失し、今はその敷地を支える石垣だけが残されていました。この写真の左上の台地に、神戸ジューコムの寄宿舎が建っていたそうです。
坂を下り、三宮に戻って来ました。昼を過ぎて、姫路へ行くには時間的余裕がなくなって来ました。そこで、神戸阪急のデパ地下で、お弁当を購入。これをもってJR神戸線のホームに急ぎました。そこに快速電車がやって来ました。これで間違えてしまいました。姫路へ早く着くのは快速でなく新快速です。まさか同じ線路に両者が走っているとは思いませんでした。仕方なく西明石で後続の新快速に乗り換え、約30分のロスです。それでも何とか姫路に着き駅北口を出て、正面に見えるお城へとバスで急ぎました。実際の城を見て、何故姫路城が素晴らしいのか分かりました。姫路城二の丸から天守閣を見上げる
姫路城の天守閣は平野に出た瘤の様な姫山と言う小山に建っているので、併せると100m近い高さにもなる。その天守が複雑に構築され、ねずみ色の屋根瓦と白漆喰の壁が全体にリズムと調和を与えています。そうした垂直方向もさりながら、江戸初期の池田輝政候を代表とする改修者が城の拡張を試み、幾重にも石垣が外へと展開し、おおらかな広がりを形づくったことが空間にゆとりを生み城を惹きたてているのではないか。そんな印象を受けました。さあ天守へ登ろうという段で、妻の吐く息が荒いので荷物を肩代わりしたら、これがやけに重い!旅も最後だし、ここは無理をせずとして後は天守を囲む位置にある備前丸や二の丸から天守を見上げながら、往きにくぐった菱の門まで戻り、城を後にしました。城から南の方向には、瀬戸内海を隔てて小豆島が望見されました。
帰りはバスがなかなか来ないので、時々妻のカバンを持ちながら駅まで戻り、またしても弁当を買って5時過ぎの新幹線で、東京駅へと戻りました。