ここでは、アーカイブとは言えない最新の旅行報告を記すことにします。言わば、私の旅の備忘録です。現在までに10本、ここにアップロードしています。
⑩2022年9月 海外の旅『オランダとドイツ中南部への旅』(23年8月、12月、写真を追加)
⑨2022年6月 国内の旅『関西旅行Ⅱ』
⑧2022年4月 国内の旅『関西旅行Ⅰ』
⑦2019年初秋 海外の旅『ドイツ南西部とスイスへの旅』そのⅠとそのⅡ
⑥2019年初夏 中国の旅『遼寧省瀋陽と撫順への旅』
⑤2019年春 中国の旅『河南省開封と鄭州への旅』
④2019年正月 国内の旅『常磐路(ときわじ)往復と岩手の旅』
③2018年前半 国内の旅『信州から四国高知を往復』
②2017年後半 国内の旅『信州を経て新潟から日本海沿いを青森まで』
①2017年前半 海外の旅『米国中西部への旅』
以下に、掲載しています。
⑩2022年9月 海外の旅『オランダとドイツ中南部への旅』
コロナ禍の日々が3年目に入り、いまだその出口が見えませんが、今年こそはと5月末に航空券を確保しました。行き先から迷いがありましたが、予約したのは9月半ばのアムステルダム往復。しかし、オランダだけではもったいない。そこで10日間の旅程の後より1週間は周辺国へと考え、選んだ国は結局ドイツでした。前回の旅でも訪ねそこなった南東部へ行くことにしたのです。それを最終的に決めたのは、9月初めに妻と出かけた長野市への日帰り旅行。目的地の一つが、善光寺に隣接する長野県立美術館東山魁夷館。そこで東山さんのコレクション、連作『古都を描く』を見たのです。14点のすべてがドイツで写生したものを基に完成させた作品でした。中でも『朝の聖堂』という作品は、ドイツ中部リンブルク・アン・デア・ラーン(Limburg an der Lahn)という小都市の丘に建つ聖ゲオルグ聖堂を描いたもの。絵の実物は、この時初めて見ました。街を流れるラーン川沿いから見上げた聖堂の偉容が描かれていました。そう、かねてからこの街に行ってみたかったのです。ラーン川沿いにはもう一つ、訪ねたい所がありました。ひいきにしている英国のヴォーカル・グループVoces8が、久しぶりに欧州ツアーを始め、9月12日には川沿いのバート・エムス (Bad Ems)という温泉保養地でコンサートをする予定だったのです。これに併せて旅程を組むことにしました。
『朝の聖堂』東山魁夷 同じ作品に『夕べの聖堂』もある。
9月9日(金)曇天 夕刻、成田に向かう
中東系のエティハド航空で一路ペルシャ湾岸のアブダビへ。香料の強い中東世界。
9月10日(土) 爽やかな晴れ 深夜の数時間の空港待ちでアムステルダムへ
午前、アムステルダム・スキポール(Schiphol)空港に到着。鉄道利用のため、先ずは国鉄の窓口で日本のスイカ・パスモに当たるOVチップ・カールトというパスを購入。窓口の中年女性が無愛想で困りました。これを持って改札に向かい、ぴっ!とならす。おなじみの2階建て車両に乗り込む。オランダには3日間、宿は南隣のライデン(Leiden)駅前にとりました。オランダでは有名なチェーン、ゴールデン・チューリップの宿です。ここで荷物を預かってもらいました。受付のエリーゼ嬢にベートーヴェンのピアノ曲の真似事をして笑わせた後、鉄道利用でデルフト(Delft)へ向かう。
デルフト 昔の駅舎を借景にした新駅のコンコース
さあ、すっかりモダンになったデルフト駅です。列車で20分で着きました。この日は、街自慢の施設や建物をこぞって公開するメンテン・タークという催しの日でした。先ずは二十数年前、家族で泊まった気の利いた宿、『レーヴェンブルク』に立ち寄りました。とは言え、コロナ禍のせいでしょうか、閉館して人気のない建物だけとなっていました。次に街の中心、マルクト広場界隈。この街にやって来たのは、やはり画家フェルメールの足跡をたどりたいからでした。フェルメールはここに聳える新教会の宗旨であるプロテスタントでしたが、カトリック教徒のカタリーナと結婚後その信徒となり、通っていたのは、新教会のすぐ脇にあったマリア教会だったそう。脇に銘板がありましたが、中には入れませんでした。デルフト ⇑⇑新教会の塔から遠くに北海方面を望む 左下の古風な建物は市庁舎
デルフト ⇑新教会の聖堂内でメンテン・タークのこの日、室内楽のコンサートが
今回は新教会の塔に登ってみました。漸くたどりついた塔屋のてっぺんからは、周辺の街を含む広大な平野と眼下に観光客が集う市街地が一望されました。広場の北側には、フェルメールの住居だった所の脇に、観光客向けのセンターがあり、彼の系図とか代表作のコピーだとか、展示してありました。広場には、大きな円盤状のチーズが並ぶチーズ屋さんやデルフト陶器の店など、華やいだ雰囲気でした。アウデ・デルフトと呼ぶ運河沿いには17世紀の黄金時代の衣装を身にまとった女性たちが迎えてくれました。カメラを向けると一人いた男性が恥ずかしそうに建物の中へ。その建物、市内で最も古い一つだそうで、古都に相応しい趣きでした。そのまま運河を街の南端の方へ。左右の運河が集まりちょっとした池になっているザイドコルクという場の南に回り込むと、これがフェルメールの『デルフトの眺望』を描いた場所ではと、説明の碑がある岸辺に行きつきました。三百年以上の時がたちましたが、風景には当時の面影が残っていました。
9月11日(日) 天気は終日快晴 ハーレムそしてホールンへと出かけました
ハーレム フランツ=ハルス美術館の中庭 建物は17世紀黄金時代の養老院を再利用している
ハーレム(Haarlem)市は、これもライデンからは北へ25分ほどで着く、首都のアムステルダムに隣接した街です。オランダ人が最初に入植した米国ニューヨーク市にハーレム地区があるのは、この街から名付けられたのです。17世紀のオランダ黄金時代には、麻織物の生産で繁栄したと言います。当時の風俗や肖像を描いたフランツ=ハルスや風景画家ヤコブ=ロイスダールの出身地です。街並みはここもレンガ造りの建物が並び、落ち着いた雰囲気です。駅を出て真っ直ぐ南に行くと、フランツ=ハルスを記念した美術館があります。地元ではハルスの方が有名で、ロイスダールの影は希薄でした。彼が故郷を描いた風景画『ハーレムの眺望』には、大聖堂の聖バーフォ教会が遠景に配置されています。そのゴシックの塔を間近に見ることになりました。
ホールン 港の運河にかかる跳ね橋で、パドルボードを習う少女と教えるコーチ
この日はもう一つ北の、黄金時代の海外貿易拠点だったホールン(Hoorn)の街にも足を運びました。インタシティー(急行の意)でアムステルダム経由1時間。駅前からの歩行者専用の通りになっている道を海に向います。途中左側にこれもレンガ壁の教会の建物があり、中から歓声が聞こえます。その音に促されて入ってみると、確かに建物は教会なんですが、大きなスクリーンにライブでサッカーの試合が放映されており、そう言えば礼拝席もありません。これは信者として集う者がいなくなった教会を、市が公共の空間として利用している例でした。かつて厳格なカルヴァン派が多かったこの国は、現代では最も世俗化・脱宗教化が進んだ社会だと言います。その場に私が迷い込んだのです。
街の中心はロードステーンと呼ぶ広場。周囲のレストランが設けたテラス席で埋まっていました。賑やかな声が飛び交っていました。ここまで来れば港はもう直ぐ。と言っても、直接港の風景が見当たらず、同じく迷ったらしい初老の夫婦に質問され、ようやく地図を取り出して方向を教えたりしました。その港にはホールン塔と呼ぶシンボルの塔が立っており、近くには観光船が出入りする港があったり、無数のヨットが係留してある桟橋が広がっていました。穏やかな日曜の光景に癒されました。
9月12日(月) この日も快晴 オランダからドイツへ
ライデンから東方のユトレヒト(Utrecht)へ。ローカル電車の旅です。平坦な地面は、やはりその昔は海だったところだそう。ユトレヒトは以前から駅前に大きなモールがある、モダンなイメージの街です。しかしこの街も、オランダ独立期に、北部諸州がスペインからの独立を誓った「ユトレヒト条約」締結の地です。モールのすぐ東側には、旧市街の賑わいがありました。
ユトレヒト この街の中心、旧運河沿いには人々が憩う親水空間が伸びる
まず向かったのは、ドムトールン。地上100m近い尖塔です。あいにく工事中でしたが、実際の建物には覚えがありました。そう、長崎のハウステンボスの中心にそびえる塔、あの塔のモデルとなったものです。この塔は大聖堂の付属ですが、もう一つ聖堂と隣接しているのが、「条約」の調印会場になったとされる大広間。隣のユトレヒト大学本館からアプローチします。中に入ってもそれの所在がわからず、受付で聞いてもアルバイトの女学生からは、返事がありません。1階の奥へと進むとそれらしきホールが。この時は秋にもある卒業式の準備中で、スタッフに聞くと、確かにこの場所ですとの返事。2階に上り、親子そろって式に集う人々を見下ろしながら、クラシックな内部を撮らせてもらいました。建物を出て駅へと向かう時、アジア人の青年に出会いました。彼はヴェトナムからの政府留学生。大学で工学を学んでいるそうでした。
ユトレヒト 大学内の条約が締結された由緒ある講堂 9月にもある卒業式が始まるところ
さあ、ここでOVカールトの改札とはお別れ。午後の列車で隣国ドイツのデュッセルドルフ(Düsseldorf) へと向かいます。ドイツ新幹線ICEで2時間弱の旅。ここでドイツ国鉄の周遊パス7日間を購入し、再度ICEでライン川を南下、コブレンツ(Koblenz)の駅に。20分の遅延が発生。ローカル電車がホームの反対側で待ち構えていました。ところが、今度はその電車の交代要員が別の列車の遅延で来ないのです。合計30分近い遅れで、ようやく発車。モダンなインテリアのディーゼルカーは、この地でライン川に注ぐラーン河に沿って山道を行きます。間もなくバート・エムスの一つ手前その西駅に到着。歩いて10分ほどの宿に着くかと思いきや、とんでもないトラブルに巻き込まれました。
何と宿にスタッフがいず、玄関の張り紙には6時に戻ってくるとありますが、その6時をもう過ぎています。連絡先に電話と言われても、自分の携帯からかけられる訳がありません。8時には予定していたVoces8のコンサートが始まります。荷を担いでそこに行くわけに行かず、困ってしまいました。宿の100m手前に同業のホテルがあり、そこの受付に聞いたところ、宿の主人に電話してやると言われ連絡が着きました。しかし、もう一度戻っても結局は不在のままでした。さらにもう一度、そのホテルに出向き今度は主人と直接電話で話すと、玄関から入って既にいる宿泊客と話してくれと言う、あり得ない返事。仕方なく指示通りにして2階の宿泊客と話すと、鍵の入った箱を示され、そのカギで部屋に漸く入れました。宿の女主人とは、結局、翌朝の朝食会場まで会うことはありませんでした。もちろん、こんな経験をしたのは初めてです。
さて緩やかな坂を東へと下りラーン川沿いの優雅なカジノの建物へと向かいます。夕食を食べる時間がなくなり、途中の中華料理店で焼そばをテイクアウトし、とにかく会場へと急ぎました。チケットは既にオンラインで購入済み。しかし控えが正しく印刷されず、その事情を話し入場できるかを確認する必要があったのです。答えはOK。後は発泡スチロールに入ったそばを、外に出てラーン河沿いのベンチで食べることになりました。コンサートはと言うと、これは期待以上に素晴らしく、彼らの得意な宗教曲だけでなく、アメリカのポピュラーソングなども披露され、満員の客からは大きな拍手があがりました。この時知った事。Voces8の呼び方は「ヴォ―チェス8」ではなく「ヴォッチェス」と発音するのだそうです。すっかり暗くなった会場を後にして、ホテルへと戻りました。楽しい経験でした。同時にこのトラブルですっかり消耗したようです。バート・エムス カジノに併設されたコンサートホールの優美なインテリア
カジノのホワイエにVoces8のメンバーや地元テレビ局も来ていた
9月13日(火) 天気 曇りから雨 ラーン川沿いを行く
朝の食堂で宿の女主人に会いました。朝食の間は南側に開けて明るく、提供されたパンと生ハム、チーズなどは美味しかったです。円高の影響をもろに受ける旅行となったので、パンやリンゴなどを余計にもらうことにしました。チェックアウトの段になって、昨日のことは問わずに出かけることにしました。同じ道をたどって昨日のカジノをめざします。ラーン川沿いのフランス風庭園の先に、あのカジノは建っています。この辺が街の中心。その昔、普仏戦争のきっかけを作った「エムス電報事件」※1の現場でもあります。建物を越えた所に、地下に下る螺旋階段があり、飲泉所が見えました。バートですから、ここは温泉地。その昔は大勢の保養客で賑わったのでしょう。バート・エムス フランス式庭園の向こうにカジノの建物を遠望 ↑↑
ラーン河から見たカジノ(左)とホテル街(中右) ↑
バート・エムスの駅から乗車。ローカル線をラーン河の上流、東へと向かいます。この辺りのラーン河は幅10m程で、緩やかな田園を流れています。時には気まぐれにその幅を広げ、その先では再び小さな流れへと縮小します。大陸の河なので、河川敷を見ることはありません。40分ほどで目的地のリンブルクに着きました。東山画伯が描いた大聖堂の街です。ロッカーを探すのが面倒なので、荷物を抱えたまま駅前通りを聖堂の丘へと歩みます。上り坂になった所からいかにも古風な旧市街が始まります。坂を上った所で聖堂前の広場に出ました。東側の聖堂正面以外は三方に展望が開けています。眺めが良いのですが、薄曇りの空の下、何か印象に乏しかったです。北側に流れるラーン河にあの絵を描いたであろう石橋が見えました。そちらに石畳の道を降りて行き、渡った所で振り返りました。川越しに見上げた聖堂は凛々しく、東山さんが被写体に選んだことに納得しました。
リンブルク・アン・デア・ラーン ラーン河の石橋から大聖堂を見上げる。
他のアングルもと言うことで、再び旧市街の家並みを抜けて、丘の東側に回り込み、聖堂が美しく見えるポイントを探したりしました。手前の建物で隠れてしまい、これがなかなか大変でした。駅へと戻る途中、前庭で若い青年たちの歓声が聞こえるギムナジウム(普通高校にあたる)を見かけました。時は9月、新しい学年が始まった所だったのでしょう。
駅につくまでに思い出したこと。それはスマートフォンに充電するアダプターをバート・エムスの宿に忘れて来てしまったこと。大変困りました。しかも、仮に時間をかけて戻ったとしても、宿が開いている保証もありません。結局へそを曲げて列車の行き先も確かめずに乗車したら、走り出したのは反対方向の東への鉄路でした。昨日と同じ小奇麗なローカル列車です。沿線は今まで以上に山とラーン川に沿ってひなびた風景が続きます。通路の反対側に出発間際に乗って来た女子高生が、大きなケーキを抱えているのが気になりました。こちらから声をかけてみると、「今日学校に行くと、アビトゥーアの合格が決まったので、自分への褒美に買ったの」との返事。学校と言うのは、あのギムナジウムだったのでしょう。アビトゥーアと言うのは、大学入学資格試験のこと。思わず、「おめでとう!」と言ってしまいました。
結局この日は、天気が悪くなったこともあり、フランクフルト行きへの乗り換え地点、ギーセン(Giessen)と言う大学街に至り、駅前のホテルに投宿しました。
※1エムス電報事件とは、プロイセン皇帝ヴィルヘルムの滞在中、訪れたフランス大使が皇帝に強硬だったという偽情報を、宰相ビスマルクが電報を改ざんした形で発したというもの。
9月14日(水) 朝から雨が降ったり止んだり 南ドイツをめざす
フランクフルト行きのIC(急行列車)を待つ際、雨が降り続き屋根もないホームで待ったため、難儀しました。しかし、この鉄路は準幹線。列車は快適に飛ばしました。
フランクフルト中央駅は欧州に多いターミナル形式の大屋根の駅。そこで朝食を買い、ICEに乗り込みました。ヴュルツブルク(Würzburg)経由で南ドイツをめざします。ところが、ここでも列車遅延が発生し1時間以上も待たされました。近くに坐ったヴェトナム人の初老の夫婦が言うには、運転士が到着していないとのこと。ドイツ国鉄(DB)の遅延が慢性化していることに、漸く気がつきました。この後でも、遅延に悩まされました。結局、目的地の一つニュルンベルク(Nürnberg)に着いたのは、午後も遅くになっていました。ニュルンベルク 城へ登る道 奥にルネサンス期の画家、デューラーの家が・・・↑↑ 城の一部はユースホステル(Jugend Herberge)に利用されていた。↑
円安ユーロ高で、お金のやり繰りは大変です。そこで前回同様、ユースホステル(JH)のお世話になることにしました。1985年にこの街に来た時、街の中心の橋を渡り坂を上った所にあったのを覚えていたからです。しかし、そこまでは1.5㎞位あり、街を貫流するペークニッツ河の橋までは下りですがそこを越えると登りに上ってたどり着きました。またしても消耗しました。ここで二泊することになります。ユースは街の北側の城壁に沿って建てられた城の一部を建物に取り込んでいます。近くには、ルネサンスの画家アルブレヒト=デュ―ラーの生家もあり、なかなか魅力的な所です。ただ公共交通には恵まれていない。この日、またしても消耗した体を動かして駅へと向かいました。駅前からのトラムで向かったのは、ツェッペリン広場と呼ばれるナチス時代の党大会の跡地。まずは、その大会を解説した「帝国党大会会場文書センター」と言う建物に寄りました。元々ここは、国民的なイベントが開かれて来た野外会場でした。30年代、ここで催された党大会には、毎年3,40万人の党員が参集したと言います。興味深い展示を見て、さあ実際の広場に行こうとすると雨が降って来ました。あいにく傘を宿舎に置いてきてしまい、出口で雨宿りです。出直すことにしました。トラムの停車場は至近です。そこへ駆けて行き、宿舎へと帰りました。駅からの道は雨でぬれていたものの、ほぼ止んだ状態に戻り、また橋を越えて気力で宿に帰り着きました。
9月15日(木) 曇りだが、時々雨も アイゼンナハを往復しバッハ・ハウスを訪問
この日は中日なので、北方のアイゼンナハ(Eisenach)の街を往復しました。とは言え、片道200㎞以上の長距離です。連日乗る新幹線ICEは、近年国土を縦横に結ぶ路線網を完成させつつあり、このルートはアイゼンナハに至近のエアフルト(Erfurt)まで、高速新線を利用できます。ところで、まずはユースを出て直ぐの聖ゼバルドゥス教会に立ち寄りました。この由緒あるプロテスタントの会堂は、盛んにコンサートを催しているそうです。この地に生まれた音楽家パッヘルベルが、バロック時代、オルガンを奏でた所としても有名です。しかしゴシックの会堂内には真新しい大規模なパイプオルガンが鎮座していますが、まさかこれがパッヘルベルが弾いたはずもなく、玄関わきの受付のご婦人に聞くと会堂中央に案内され、「この上にありました」と教えてくれました。二次大戦中、灰燼と帰した会堂に、当時のオルガンがあるはずもなかったのです。
さて、ICEに乗りエアフルトをめざします。その高速運転を期待していたのですが、乗った列車はバンベルク(Bamberg)の先で専用線に乗らず、コーブルクという都市へと迂回します。余計に時間がかかってしまいました。エアフルトで西行のICに乗り換え、間もなくアイゼンナハ駅へと入りました。かつての自動車企業ヴァルトブルクの拠点ですが、こじんまりした地方都市です。駅を出て直ぐには、スマートな外観のスーパーが2軒並んでいました。その先の旧市街の先に、偉大なバッハの旧居が博物館として残っていました。実は92年の夏、この地で時ならぬ道路渋滞に巻き込まれ、予定していた訪問に間に合わない失敗があったのです。今回、その訪問がかないました。
アイゼンナハ バッハの旧居。右は博物館仕様の新館。
博物館は旧居に隣接する形で新館が増設され、展示内容となるとバッハの残した名曲をヘッドフォンで聞かれる部屋など、充実していました。午後2時半から楽器が並ぶ小ホールで、平均律に由来するバッハの作曲の極意を紹介するレクチャーがあり、参加させてもらいました。軽やかに当時の楽器を奏でながら、我々参加者の興味関心に答えていました。また写真では、19世紀初頭、旧居が偉大な作曲家を記念する博物館として開館した時の、盛大な開所式の様子を伝えるものがありました。アイゼンナハの旧市街を駅まで戻り、帰りのICをホームで待っている時、南の小高い丘の上に前回来た時立ち寄ったヴァルトブルク(Wartburg)の山城が見えました。ルターの宗教改革史に残る名城ですが、こんなに近かったとは気がつきませんでした。
帰りはエアフルトで高速新線に乗るICEをつかまえ、所要時間も短縮され、余裕をもってニュルンベルクに、戻って来ました。夕飯は橋の近くまで降りて、地元のビールとヴルスト(ソーセージの意)を出すレストランで外食と相成りました。
9月16日(金) 曇り時々雨 レーゲンスブルクへ ミュンヘン経由アウグスブルクへ
ドイツに入って雨交じりの天気が続く。今日は宿舎を発ち、旧市街の中州に寄った後、駅からICEで南東のレーゲンスブルク(Regensburg)に向かいました。ホームで列車を待つ時、行き先表示は何とウィーン(Wien)中央駅となっていました。そのまま乗り続ければ、オーストリア国境を越え、ドナウ河沿いに走る国際列車だったのです。初めてレーゲンスブルクを訪ねました。1時間ほどで到着です。ドナウ河に沿う旧市街へは北に15分ほど。双塔をもつ大聖堂が見えて来た時、その脇にある聖母降誕教会に人が出入りするので、こちらも入場。中にはバロックの華やかな彫刻に彩られた空間が広がりました。美しかったです。
レーゲンスブルク 大聖堂南側の『聖母降誕教会』のバロックのインテリア↑↑
ドナウ川にかかる橋の塔。左側の建物は、ビジターセンター兼郷土館といったところ ↑
この街はドナウ川の水運で栄えた古都。7,8世紀には東フランク王国の中心だったそうです。さらに16世紀には、神聖ローマ帝国の帝国議会が招集されるなど中世に栄えた歴史を持ちます。そのドナウ河べりに出てみると、シュタイネル橋と呼ぶ石橋が北へと伸びていました。橋の手前には、その名も「橋の塔」と呼ぶ石造りの塔があって、中に入ると郷土館のような展示が見られました。そう、この街も世界遺産として知られています。ドイツの古都と呼ばれる街には決まって、それを代表する旧市街があるものです。レーゲンスブルクのそれは他と大いに異なる点があります。第二次大戦中の戦火を免れたのです。ニュルンベルクもそうですが、中世の街並みは実は戦後に再建されたもの。この街は、新しい石材を使った形跡はなく、まさにかつての街並みが今もそのまま残っているのです。橋を渡った向こうは、ドナウの対岸と言うより中州の一画です。そこには小聖堂が付属する教会音楽学校がありました。この種の学校としては世界最古のものだそうです。時間もあまりなく、慌ただしい訪問となってしまいました。小雨模様の中、急ぎ駅に戻り、今度はミュンヘンをめざします。
飛び乗ったREと呼ぶローカル列車で疲れのせいでしょう、ついうとうとしてしまいました。扉が開く音がします。慌てて降りると列車は動き出し、置いてけぼりを食らいました。30分後に後続の列車に乗りましたが、これがミュンヘン(München)に近づくと段々と遅れ始めます。アナウンスは、ターミナル駅の空いているホームがなく、入線の順を待っているのだと伝えていました。ドイツ国鉄の遅れにはうんざりです。この時は、ミュンヘンの手前の田園に幾つか太陽光パネルの集積している光景を見かけました。再生可能エネルギーを積極導入のドイツですが、北部でよく見かける風車でなくこちらは太陽光利用が多かったです。ミュンヘン中央駅では下車する余裕がなく、乗り換えのみになり、帰国のことも考えて今度は北西へと転じました。そして以前に家族で泊まったことのあるアウグスブルクに至り、駅前のそのホテル、イビス(Ibis)※2に投宿しました。その晩は夜の街に出て、マクドナルドに入りありふれたファストフードで夕飯としました。
※2イビスはフランスを拠点とするアコーホテルズが運営するビジネスホテル。日本にも京都駅南口他、数店舗進出している。
9月17日(土) 曇りから雨へ 寒い ウルム再訪 さらにフランクフルトへ 朝のICEで、60㎞西方のウルム(Ulm)へ。37年ぶりの再訪です。今回の目的は、別項※3で紹介しているショル兄妹の、ウルムでの足跡を訪ねることでした。まずは徒歩で数分の大聖堂広場へ。ここの建て変わった観光案内所を訪ねました。開場前なので後で寄ることにして、不確かな情報のまま、大聖堂の北側の商店街を越えた辺りを歩く。道行く人から、ショルの家はこの辺りと言われ、たどり着いたのは、物理学者のアインシュタインの博物館。戦後できたモダンな建物で、確かにこの地にもショル兄妹の家族の家があったそう。わずか1歳でこの街を去ったアインシュタインと比べ、ショル兄妹は10代の10年間をこの街で過ごしました。近くには、商店のウィンドーにゾフィーの大きな顔写真を掲げる場所があり、とにかくこの辺に住んでいたことがわかりました。それにしても曇天に時折雨と、肌寒い気候で体に不調が来て、足取りも重かったです。世界最高の塔をもつ大聖堂の広場へと戻ると、案内所が開いていました。スタッフの女性に聞くと、市内の地図に印をつけてくれ、簡単な英文資料もいただきました。その足でもう一つの現存する住居を探しに、さらに北側のオルガ通りまで歩きました。ウルム ドナウ川の築堤は遊歩道になっている
再び大聖堂広場に戻り、その南の優雅な壁絵に彩られた市役所の建物を眺めた後、坂を下りドナウ河の畔に出て見ました。先月は渇水だったそうですが、この日は川の流れが速く豊かで、はるか下流のレーゲンスブルクより吃水が深いようでした。そして河堤を歩き、37年前泊まった宿の辺りに・・・。川魚をとる漁師がいた地区に、半ば傾いた4階建て木造の旅館が今も健在でした。当時は質素な趣で、泊まった最上階の屋根裏部屋からはドナウの流れが望めました。外観は変わりませんが、今やその料金は高級ホテル並みになっていました。一足早い秋風が吹いて来て、外の寒さが堪えます。近くにノルトゼー(NORDSEE)という魚料理のファストフード店を見つけ、ヒラメのフライにありつきました。駅ではなかなかフランクフルト行きのICEが来ません。しかもこれが長旅で、目的のフランクフルト中央駅にたどり着いた時には、すぐのホテルにチェックインし、ただ温かくして朝を迎えるまでうっ臥していました。旅は大変・・・。
ウルム 右手は、かつて泊まったホテル『漁師の家(Hotel Schiefes Haus)』
※3 別項「杉原千畝を追って」にウルムでのショル兄妹についての資料を載せる予定です。
9月18日(日) 曇りから雨へ オランダのアムステルダムへ
熟睡の上、朝の食事にありつき、漸く元気が出て来ました。明日が帰国日なので、今日中には、アムステルダムへたどり着かねばなりません。目の前の中央駅からICEで高速新線経由のデュッセルドルフ行きに乗車。短絡ルートなので、ライン川沿いではなくその東の丘陵地を直線で貫きます。午後のICEに乗車して、アムステルダム到着は夕刻。ジャーマンレイルパスの有効も今日まで。というより、国際列車で国境を越える時は、その下車駅まで有効でした。冷たい雨が降り続いており、駅からは予約していたホテル近くまで、トラムに乗って移動しました。
ホテルは有名な音楽ホール、コンセルトヘボウ(Concertgebouw)の裏道にありました。その名も「ヴェルディ」。日本人オーナーの歓迎を受け部屋に通されると、これが典型的なアムステルダムのアパートメント。階段の踏面が短かすぎ、靴を横向きにして慎重に上階に昇りました。踏み外したら大変ですが、以前泊まった別のホテルでも事情は同じ。かえって懐かしさを感じました。この日は日曜で、近くのコンセルトヘボウでもコンサートが予定され、その厳(いか)つい大ホールでなく、優美な装飾の小ホールへと足を運び、日本人演奏家中心のバロック古楽器の演奏に耳を傾けました。しかし気の利いた演奏会でした。開場と同時に控室でワインやソフトドリンクが振る舞われ、演奏中程のインタミッションで再度、そうしたサーヴィスがあったのです。これがオランダ流なのでしょうか?後半のハイライトは、ヴィヴァルディーの四季。バロック・ヴァイオリンの寺神戸(てらかど)亮さんの演奏が光りました。アンコールは何と若いバレー・ダンサーが出て来て優美な舞踏を披露。後で主催者の天野乃里子さんにお伺いしたら、そのお子さんだったとか。外国人の顔立ちから、天野さんが国際結婚していることがわかりました。
アムステルダム コンセルトヘボウ 小ホール 他のコンサートの写真を借用
冷たい雨の中、宿へと戻り、暖かい部屋で朝を待ちました。
9月19日(月) 朝から雨 中東経由で帰国の途へ
昨夕から続く雨にうんざりでした。しかも9月と思えないほど寒いのです。宿で聞いていた、コンセルトヘボウ前からの空港行きバスに早朝乗りました。オランダ人の体形に合わせたような大型のモダンなバスです。終点を降りると目の前が、空港ターミナルで大変至便。余裕をもってチェックインすることができました。そう、つい半月前に帰国前のPCR検査必須がとれ、その代わりワクチン接種証明を提示することに。書類はちゃんと用意されていました。
9月20日(火) 曇り日の日本(成田)へ。無事帰着しました。
今回の旅は、トラブルと体の変調続きでいささか苦労した旅でした。英語のトラヴェルには同じ英単語トラブルとの関係はありません。しかし語源をたどってみると、仕事、苦労を意味する仏語のトラヴァイユ(travail)が語源だそうです。その意味で今回の旅は真正のトラヴェルでした・・・。
⑨2022年6月 国内の旅『関西旅行Ⅱ』
さて、今年二度目の関西旅行です。前回の関西行きを経験して、自家用車での芦屋往復を考えて見ました。実は、長男が住む団地内には例のTIMES駐車場があって24時間で最大800円という掲示を見ていました。それなら、宿泊でも大した出費にはなりません。一方で、目の前に聳える六甲山からの夜景など、車でないと行きづらいところも多々あります。ガソリン代や高速代がかかっても二人なら、元がとれるとも思いました。長男が6月初めに帰京しました。その帰りに運転手もしてもらう形で、同行してもらうことにしました。
6月5日(日)晴れ 夕刻から雨
長男はこちらでの用事があり、出発は午後3時半になりました。しかも前の日から我がマイカーを借りて出かけていたので、落ち合うのに都合が良い八王子駅前で私共夫婦が合流する形で出発しました。圏央道高尾山ICを入り一路南下、海老名JCで東名に合流。西へ西へと走らせます。静岡に入り御殿場を過ぎた頃、右手には雲をかぶった富士山が・・・。この頃、道は新東名高速道路へと入り、高規格道路ゆえ120㎞走行へと移りました。間もなく駿河湾沼津SAに寄り、長男に運転を交代してもらい、先を急ぎました。夕刻が迫る頃、愛知県へと入り雨が降って来ました。そのまま伊勢湾を東西方向にかすめ、伊勢長島PAに入った頃は8時近くでした。ここで夕食。今度は私が運転を交代。夜の新名神を滋賀の草津を目指しました。草津で名神高速に合流。まもなく大津SAで再び長男に交代。雨は降り続いていましたが、1時間も経たずに名神高速の終点、兵庫県の西宮に達しました。芦屋はそのすぐ西隣、やがて見覚えのある団地群の中に入り、無事目指す号棟の脇まで来て荷を下ろし、車を例の駐車場へと入庫しました。
これで第一日目の課題は達成。数年前に高規格の新東名・新名神が開通したことで、かなり時間短縮ができました。さらに日曜の移動だったので、高速代を節約することもできました。めでたし、めでたし。
6月6日(月)曇り時々雨
この日は天気予報通り雨。雨天なら有馬温泉につかろうと思っていました。有馬は芦屋から北に六甲を越えれば直ぐです。朝、長男の出社に合せて車を出し、東灘区の職場に送り届けてから、芦屋市北側の有料の『芦有ドライブウェイ』を六甲へと駆け上がりました。梅雨の走りの天気だったと思いますが、この時は曇りのまま東六甲展望台に寄り、文字通り、六甲の東側そして南の大阪湾方面を一望することができました。遠くには、大阪と奈良の県境をなす生駒山、大阪湾の向こうには銀色に輝く関西空港の島が望まれました。
そこを北へと下って有馬温泉へ。中心街に近い便利な公共駐車場を降りると、すぐ北側には、今は閉館となった『池坊満月城』というホテルが迫り、何となく寂しさが漂います。日本最古の温泉街にもこうして廃墟となりつつある旅館があるとは、大変寂しい限りです。三十年以前、この街の「金の湯」に浸かったことがあります。有名な赤銅色に濁った湯でした。今回は無色透明な「銀の湯」につかることにしました。 有馬温泉には、路地裏を入ると若い人向けのスペースも 奥に噴気塔が見える
風情ある石段を上り、禅寺の「温泉寺」を越えた所にその日帰り施設「銀の湯」がありました。内湯だけでしたが、昨日の長旅の疲れを癒すには丁度良かったです。 この後、温泉街を散策。古い温泉に相応しく、何軒か老舗の店なども並んでいました。川上商店が経営する『山椒彩家』で、妻が山椒を購入。これも有馬の名物なんだそうです。私の方は、この店沿いの有馬古街道の古い家並みに魅せられました。車がやっと通れるような人だけが行き交う道です。ゆるい下り坂となっていました。一角には、外観はその町屋のままリニューアルし、二階屋の上階は連棟式の客室となっている、『小宿八多屋』というモダンな旅籠があり、とても面白い仕掛けだなあと感心しました。小宿とは、有馬千軒と言われる賑わいを見せた江戸時代、この地で一般的だった一階が竹細工などの商店、二階が自炊型の宿舎のことを言うそうです。いつかは泊まってみたい!。この後、賑わいの中心「金の湯」へと下り、駐車場へと戻りました。
さて帰り道は東へと宝塚へ抜け、武庫川を渡り、数年前に来たことのある宝塚南口近くのファミレスで昼としました。南口にあった阪急系の宝塚ホテルは、この数年のうちに大劇場などが集まる北側の宝塚駅東側に移り、「宝塚」というテーマパークの一翼となったようです。あの建物の再訪はかないませんでした。午後はそのまま今津線沿いを南下。途中右手の丘へと上がり、閑静な住宅街を抜けると、前回も触れた西宮市上ヶ原の関西学院のキャンパスが見えて来ました。赤いスパニッシュ瓦とクリーム色の外壁を統一した、なかなか洒落たキャンパスです。ここを通り抜けて、南西の芦屋市へと戻りました。早めの帰還となりましたが、妻はバスでJR芦屋駅付近の大型店へと足を伸ばし、私は団地の部屋を掃除機で丁寧に掃除した次第です。この辺が、普通の観光旅行とは違うところです。夕飯は、長男を囲み妻の手料理をいただきました。
6月7日(火) 晴れ一時雨
長男の住む芦屋の団地から見た六甲山
今回も日帰りで京都訪問です。最寄りの阪急芦屋川駅へと行くつもりが、先に来た阪急夙川(しゅくがわ)行きに乗ってしまいました。夙川は一駅大阪よりで好都合だったからです。ところがバスは阪急線をくぐるとさらに北の六甲山麓を上って行きます。瀟洒な邸宅街の坂道を縫うように進みました。芦屋の高級住宅地「六麓荘(ろくろくそう)」を廻っていたのです。95年の阪神大震災の断水時も、少なくない住民が大阪の高級ホテルへ一時避難したと、世間で話題になったところです。大分遠回りして、阪急夙川にたどり着きました。
それからは大阪の十三(じゅうそう)乗り換えで、一路京都を目指します。阪急京都線が京都市内に入ると地下へと下りますが、その最初の駅「西院(さいいん)」で下車、地上に出た所にある京福電鉄嵐山線の西院(さい)駅で、その嵐山行きに乗り換えました。こちらに来て、初めて天気雨に降られました。今日の目的地は都の西北、衣笠の地。先ずは龍安寺を訪ねます。京福嵐山線を帷子ノ辻(かたびらのつじ)で京福北野線へと乗り換え、北東へと進むと終点、北野白梅町の二つ手前に、その名も竜安寺の駅名。ここを降りて、龍安寺道を北へ。県道の手前から緑陰に沿って石の参道が始まり、寺院の境内へと入って行きます。その県道を越え、暫く坂を上がると入口。そして中に入ると左手に大きな鏡容池が木の間越しに垣間見えます。意外に広い龍安寺の中心に、これも東西120mとかなり広い水辺を提供している池です。石庭が評判を呼ぶ以前、龍安寺と言えば、この大池が売りだったそうです。その奥に位置する石庭は、本堂に靴を脱いで上がって、広縁に出て鑑賞です。いつ来てもこの石庭の佇まいには、独特な魅力があると感じます。観覧者には静粛が求められるので、この木の床に坐っていると、本当に心が落ち着きます。今回はさらに余興がありました。後ろを振り返ると、本堂畳の間の襖絵が禅寺に相応しい雲竜の図。これがダイナミックな見事な墨絵でした。作者は何と総理大臣を務めた細川護熙(もりひろ)氏。玄人肌の作品でした。お公家さん出身の細川氏は、政治家よりこうした芸道の方が似合っていたのかもしれません。龍安寺本堂襖絵 細川護熙氏製作の雲龍図
さて、この衣笠の地には、龍安寺の西に仁和寺、北東には金閣寺が少し距離を置いて並んでいます。今回は東へと金閣寺に向かいます。その県道は最近、「きぬかけの道」と命名されたとか。道の途中南側には、立命館大学衣笠キャンパスが広がっています。コロナで、出入りは禁止されていると思ったのですが、西側の通用門は開いていました。ちょうどお腹がすいた頃だったので、直ぐの学食に立ち寄りました。何食わぬ顔で、鶏肉と野菜のオイスター炒め、妻はピリ辛サーモンの丼を注文しました。おいしかったです。ビニール板の衝立が目立つテーブルで昼と相成りました。昼を過ぎたキャンパスには、コロナを感じさせない学生の賑わいがありました。道の向こうに堂本印象の美術館が目立つ正門から出て、再びきぬかけの道を歩みます。左手に『雅堂』と名乗る、故井堂雅夫氏の木版画を展示即売しているギャラリーがあり寄ってみました。木版画と言う柔らかなタッチに魅了され、それをプリントした風呂敷を妻に使ってもらおうと購入しました。もうここまで来ると金閣寺は直ぐです。きぬかけの道から左手に入り緑のアプローチを入口の総門へと向かいます。修学旅行の団体が大勢で来ていました。
Hさんは、京都府宇治市の出身です。東京で知り合いましたが、今は仕事の関係で大阪近くに住んでいます。駅ビルで食事でもと言うことになり、その上階で落ち合いました。妻の買い物が終わらぬので、先に私がHさんと合流しました。実はHさんの職業は弁護士です。私自身は、2年前に自分の抱えていた懸案があり、メールで相談にのってもらっていました。その時以来の再会でした。弁護士での活動を始めて以降、なぜだか却ってお洒落になったよう。身につけるものや手指のマニキュアが美しかったです。ほめておきました・・・。
さて三人でビルのレストラン街で日本料理店に入り、和定食と日本酒で夕飯に。Hさんはいつも通り饒舌で、仕事の話だったり、生まれ育った京都の話しだったり、ちょっと早口になったかなあというスピードでしゃべり続けます。先ほどまでいた京都の今出川通りにある同志社の女子高と大学の出身です。寺巡りばかりでは飽きるかもしれないので、妻とそのキャンパスにある重要文化財のチャペルに行きたかったが、コロナで入校制限があって行けなかった、とか話しました。妻とは同性同士でするプライベートな会話もあったようですが、隣で聞いていたはずの私に覚えていることは殆どありません。Hさんとは大阪駅で別れ、私どもは阪神で帰宅。漸く長い一日が終わりました。
6月8日(水)晴れ 関東への移動中、雨へ
さあ、東京へ帰る最後の日。この日は再び奈良の地を訪れ、そのまま名阪国道を三重に抜け、名古屋から新東名に入る経路で帰京しました。往きと違い帰りの運転は私一人にかかります。そこで無理をせず、訪れたのは、奈良県宇陀市の室生寺だけとしました。阪神高速から西名阪自動車道の香芝ICまで行き、そこから奈良盆地の一般道を横断。近鉄大阪線に沿った道を桜井市方面へと向かいます。渋滞を避けて入った直線路の市道からは、南東方向に何と天の香久山が望まれました。さすが、奈良ですね!桜井からは山の中の国道165号を東へ。途中、北側に長谷寺を見ますが、こちらは近鉄線から歩いて行けます。そこで今回はパス。さらに進んで室生口大野駅近くを右折。山深くなりますが、室生川沿いの道をくねくねと走り、ようやく室生寺に到着。山深いとは言え、所詮近畿の低山。室生川沿いの谷は、とても明るかったです。
寺は川の北側にあり、朱色に塗られた太鼓橋という橋を渡った所が入口です。境内はその北側に迫る山腹を上った所にありました。広葉樹の喬木が左右から参道に枝を伸ばしていました。昔ながらの石を積み上げただけの石段を上ります。金堂は横に長い高床のテラスが有名です。そこに至り奥の本尊を眺めますが、近くまでは行けません。若い僧侶に入っては行けないのか尋ねますが、秋の特別の時期以外はだめとのこと。ちょっとがっかりしました。しかし、ここでのお目当てはそのさらに奥に、本堂の脇にそびえる五重塔。こちらは間近く眺めることができました。こちらは高さ16mと、奈良興福寺の五重塔の半分ほどのスケール。とてもコンパクトなお堂です。しかし、その分周囲の樹木の木陰に溶け合っているようでした。とても趣きがあると感じました。室生寺は女人高野と呼ばれ、和歌山の高野山が女人禁制なのに対し、女人でも入山できる寺院として開設されました。そのため、何となく境内全体が柔和な雰囲気に包まれていました。
上段から見た室生寺五重塔
さて例の太鼓門を渡り返し、食事処を探します。今は旅館としての営業はしていない中村屋旅館で、地元の三輪そうめんを温かくした、とても見映えの良い定食をいただきました。広々とした座敷が良かったです。その天井近くに本尊『釈迦如来坐像』の白黒写真。写真家はあの土門拳。そうこの寺は、土門氏の写真による紹介で発掘された感があります。私もようやくその地へとやって来たのでした。
一路帰路につく前に、名阪国道にとりつく針ICに道の駅があったので、いろいろと土産を買い、そこから三重の桑名へと至り、ここで新東名への道を見落としてしまい、名古屋の都心方面へと迂回した後、再度新東名に入り東へ。少々ロスしてしまいました。前方に雨雲を見るような荒天のきざし。静岡では宵闇が迫り、そこを何を間違えたか清水から東名へと移り、大雨の中を富士川SAで夕食。すべてが時間オーバーする中で、それでも厚木に至り、圏央道を北進。住み慣れた多摩の地に戻って来ました。立川近くの我が家に着いたのは深夜となりました。それでも道中無事だったことに感謝する次第です。
⑧2022年4月 国内の旅『関西旅行Ⅰ』
これから、22年度の2回以上にわたる関西旅行の記録を書くことにします。
なぜ関西か?それは神戸に長男が勤務しており、独身寮暮らしだったのですが、入居は今春までという期限があり、昨年末には神戸のお隣、芦屋市に転居し暮らし始めたのです。独り身にしては広い団地住まいで、それなら夫婦で泊まらせてくれということで、気軽に関西に行くことにしたのです。今年から、JRのジパング倶楽部※1に入りましたので、これを使って少しは安く旅に出かけるという条件も揃いました。
4月10日(日)晴れ 10時3分発のひかり507号で、一路京都へ向かいました。ジパング倶楽部で唯一不満なのは、新幹線のぞみには利用できないことです。しかし、30分に一本のひかりも、それほど遅くはありません。12時37分には京都駅に到着。ここで途中下車。昼は、到着前に自家製弁当で済ませました。駅に荷物を一部預け、北口からバスで向かったのは、京都国立博物館前というバス停。その博物館の道を隔てて反対側の蓮華王院、と言ってもピンと来ない方もいると思いますが、あの三十三間堂です。ここを見学しました。
「三十三間堂」南北に長いお堂の東側に小規模な日本庭園があり、その一画には地蔵さんも
平安末期、後白河法皇がご所望(しょもう)で、それに応えて平清盛が建立した建物です。中学の修学旅行以来です。今回はじっくり千体の千手観音立像を眺めさせてもらいました。今回の旅は結果的に仏師「運慶」とその子「湛慶(たんけい)」の足跡をたどる旅にもなりました。蓮華王院に最初に納められたのは、宇治の平等院鳳凰堂の本尊『阿弥陀如来』を残した仏師「定朝(じょうちょう)」とその流れを汲む院派の仏師による仏様。しかし鎌倉期に入って1249年、寺が火災にあい、かろうじて124体が救い出されたそうです。再建にのみを振るったのが、奈良仏師の「湛慶」。その慶派だけでなく京都の院派なども総動員で、現存の仏たちを回復しました。堂の中央には、ひと際大きな湛慶作の千手観音坐像。これは千手が光背のように金色の像を囲みます。贅沢なものを見させてもらいました。
この日は、芦屋にたどり着かねばならず、訪問は控えめにということで、同じ系統のバスで五条坂下まで向かいます。そこからは清水寺をめざし五条坂を徒歩で上ります。途中、「こちらが近道」という看板に誘われ、右側の坂を行くと、清水焼の店が並びます。通称「茶碗坂」と呼ぶのだそうです。中には規模も大きく、まるで美術館のような大店も。現代の陶工が造り出すモダンな器などが展示してありました。その終端で清水寺の境内へと入りました。寺はすっかり春の装いです。桜がきれいです。人通りも多く、そこを舞台へとさらに上ります。舞台からは、階段を降りて音羽の滝へ。そして山門の所まで戻ると、舞子さんに遭遇。一枚写真を撮らせてもらいました。
清水寺の仁王門を背に舞子さんを被写体にして一枚 日差しがまぶしく思わず目をつぶりました
ここからは、桜がきれいだというので北の高台寺をめざし、まずは賑やかな五条坂を下り、産寧坂の石段を右に降りて行きます。4月とは思えない陽気で、水の補給も必要でした。途中、妻が店先の売店でヨモギ饅頭を買い小腹を満たし、私はと言うと石畳に古い家並みが続く通りに古風な家を見つけ中に入ると、これがスターバックス。店内を廻ると坪庭があったり、奥にも庭があったりと面白い仕掛けに興味深々。しかし肝心の席が見つからず、そのまま店を後にしました。その先の二年坂までたどりましたが、暑さにやられ、高台寺や祇園方面に行くのはあきらめ、行き来たバスで京都駅へと戻りました。
さて、京都駅からは関西人にはなじみの「新快速」に乗り、一路芦屋へ。JR芦屋に着いた頃には夜になっており、ここで長男と合流しました。駅ビルで夕飯を食べ、駅南口前の高級食材の『いかりスーパー』で明日朝のパンを買い、その足で海側の団地までバスに乗車。無事に団地の一画にある長男の住居へと入りました。
※1ジパング倶楽部とは、65歳以上の日本人がJRの運賃等を30%引きで利用できるというもの。夫婦会員なら、60歳以上の配偶者にも適用される。年会費がかかるが、よくJRで長旅をするなら元は取れると思う。
4月11日(月)この日も晴れ 今回の旅で是非訪ねたかった土地は、奈良県南部の吉野山。何しろ4月初旬は、その吉野山が桜色に染まる時期と聞いていました。吉野へは近鉄特急と言うわけで、朝、長男の出勤後、まずは昨日のバスで阪神芦屋駅へ。芦屋と言えば、こちらが中心。市役所もすぐ目の前にあります。ここから阪神電車で梅田へ。JRに乗り換える前に、妻が郵便局に用事があるとかで、それを探して新装なった阪神の日本最大級というデパ地下を越え、先にあった郵便局へ。次にJR梅田から環状線で天王寺駅へ。何でも妻の祖父が生まれ育ったのがこの駅周辺だとか。ただし近鉄阿部野橋を発車する特急を優先し、そちらへと乗り換えました。今回はあべのハルカスへと登るのも、お預けとなりました。
特急車両は最初は空いていましたが、途中の橿原神宮前駅で奈良方面からの客がどっと乗って来て満員に。しかし、飛鳥駅を過ぎた頃からの山道はカーブもきつく、その分のんびりと列車は進みました。終点吉野に12時半過ぎに着き、改札を出ると、広場の様に広い道の両側には屋台が並び、賑わいがありました。吉野山はこの位置から南東方向に伸びる尾根沿いに展開する寺社仏閣とその周りの緑をさして呼ぶ地名。手前から下千本・中千本・上千本と桜の群生を表現し、さらに奥には標高600mを越える奥千本が控えると言う山道が続きます。しばらく行くと、下千本に上がる吉野のロープウェイが待っていました。行列で少し待ちましたが、危なっかしい時代物のロープウェイはそれでもありがたい手段で、一気に金峯山寺への参道へと運んでもらいました。しばらく両側に店が続く参道を行きます。途中に立ちはだかる蔵王権現を祀った本地堂を迂回しさらに進みます。沿道の桜は、ここ数日の暖かさのせいでしょうか、すでに盛りを過ぎ、葉桜もちらほら。こうなるとさらに高地となる奥へと向かいます。沿道の食堂で昼とした後、結局、上千本の手前で引き返すことにしました。この日も暑く、消耗が激しかったからです。帰りにのぼりが気になった吉水神社へと向かい、寄り道です。この地味な佇まいの社は、南朝期に後醍醐天皇が朝廷としていた所でした。その手前の展望台からは、対岸の山肌が桜色に染まるのを眺めることができました。これを一目千本というそうです。
吉野山 吉水神社入口からの一目千本
帰りは道が下りなので、少しは楽になりました。私が気になったのは、派出所手前の国産材純和風建築、白木の縦サンが目立つ建物で、坂本商店と看板にありました。中はそのまま、この建築のショールームです。吉野ひのきはこの奈良の山々に植樹して育てた人工林。受付の女性からは、木材産業は古来からこの吉野山と共に営まれて来たこと、それを受け継いできたことを説明してもらいました。かたわらのショップには、桧材のまな板なども売っていました。そんな時、店前の参道には修験者の一行がほら貝を吹き鳴らしながら道行く姿もありました。
帰りは下千本の七曲りを降り、吉野駅へ。往き来た順の逆で梅田に戻り、ここで駅前ビルのニトリに立ち寄り、カーテンを一組購入。芦屋に戻った際は、これを我々が泊る部屋の寝室へと運び付けることに・・・。少しずつ住環境を上げて行くつもりです。
4月12日(火)晴れの日が、そして暑さが続く この日も目指すは奈良。と言っても今度は奈良市へと足を運びました。最寄りの阪神芦屋からは何と近鉄奈良駅に直行する快速急行が、30分に一本走っています。これは若い頃出かけた阪神沿線とは大きく違っているところで、梅田へ向かう電車は途中尼崎から阪神なんば線へと入り、大阪の地下を進んでそのまま近鉄難波で奈良線となります。1時間強で、その近鉄奈良に着いてしまいました。
駅を出て大路を東へ進むと、すぐに路上を歩く鹿に出会いました。この辺りから先の南側は興福寺の境内。松林の境内に入って行き、先ずは再建なった中金堂を訪ねました。しかし、これがコロナで拝観中止だとか。まあ良しとして、隣の国宝館へと入場。こちらも、2017年のリニューアルで展示内容とそのしつらえが大きく変わり楽しみにしていました。その2年前に訪ねた時は、国宝級の諸像がまるで倉庫に眠っているかのような無愛想な印象を受けていました。今回は違う。その見せ方をよく考えて造られた構成になっていました。光のあて方次第ですね・・・。
興福寺の阿修羅像。軍神に似合わず柔和な佇まい 国宝館内部 立像は木造千手観音菩薩
退館の際は、写真の阿修羅像の絵葉書を買って土産としました。出た目の前には東金堂が控え、その奥に五重塔が聳えていました。中学の修学旅行で唯一覚えている光景です。そして西側にある南円堂方向へと歩きます。左手の南大門跡はその基壇だけが残っています。これに上ってその南側を見ると、般若の芝と呼ばれるなだらかに傾斜する緑とその先に猿沢の池が広がっていました。教員になりたての30代前半、この地に来たことがあります。土曜の午後、町田市内の勤務校から横浜線で新横浜に行き、新幹線で京都を経由し近鉄特急でこの地へとやって来ました。そう、この場所で毎年5月後半に行われる、興福寺伝統の薪御能を鑑賞に駆け付けたのです。遠い過去の話です。演目もはっきり覚えていません。寧ろ、夕方から開始の演能が日の長い季節、なかなか暗くならず興をそいだことが印象に残っています。
興福寺南円堂と春うららかな猿沢の池
南大門跡の先ほどの五重塔を見上げるに良い場所で、中高年の団体がカンバスを出し、写生に励んでいる姿がありました。南円堂の階段を降り、猿沢の池の畔(ほとり)に出ます。ここにもなかなか粋(いき)なスタバがありました。京都で見たそれとは違いこちらはとてもモダンで、眼前の猿沢の池を借景にした快いインテリアでした。池の周辺には桜の花もちらほら。とても穏やかで晴れた空の下で心地よかったです。この日も暑さが増して来ましたが、そうであればなお、日陰を求めて緑濃い奈良公園の奥へと足が向きます。春日大社の参道から公園の中を南に反れて鷺(さぎ)池に浮かぶ浮御堂へと足を伸ばしました。道行く人力車の車夫の話が聞こえてきます。西に見える古風な奈良ホテルのウンチクです。何でも由緒あるホテルは、宿泊料が数万はするとかしないとか・・。
鷺池と浮御堂 外国人客も見かけました 春日大社の万灯篭
浮御堂でしばし涼んだ後、改めて大社へと歩みました。沿道には至る所に鹿がお出迎え。春日大社と言えば、鮮やかな朱色の社を背景に万灯篭が列をなして連なる姿が印象的です。その雰囲気に浸った後、やはり木陰をたどり北の若草山の麓へと移動。小さな流れを渡った所で石段を上ると、急に視野が右側に開け、若草山園地へと入って来ました。左側にはお土産屋が多数。何故か、刃物を扱う店も。その一つ『菊一文殊四郎包永本店』という長い名の店に入りました。関西で包丁などを扱うと言うと、堺が有名ですが、店員さんの話だと堺の刀鍛冶も元はこの奈良の職人が広めたのだそうです。この店、その切れ味が評価され、米国にも支店をもつ老舗だとか。まさか包丁を土産にはできないので、その代わり小刀タイプのぺーパーカッターを入手しました。※2
若草山園地の鹿
ここまで上って来ましたが、そろそろ東大寺の寺域へと西に下ります。今日も暑さで夫婦共々ばて気味です。東大寺に立ち寄る元気はありませんが、下った所がちょうど南大門の所、大学生か社会人かの団体に紛れてこの両脇に聳える金剛力士像を拝見させてもらいました。内から外に出るとして、右側には阿形像、左側には吽形像。大仏も巨大ですが、こちらも像高8.4mもある木造の像。口を開く阿形と口を万一文字に結ぶ吽形の対称が印象的です。これを彫り上げたのが、運慶と快慶ら南都の仏師たち。できた年代が鎌倉初期の13世紀初めと知られるように、後に慶派と呼ばれる南都の仏師は、それまでの主流、京都の院派などに対抗心をもってこれを作り上げました。木造彫刻のピークを演出したのです。
往き来た近鉄奈良駅へとさらに下ります。鹿たちともお別れです。この日は、近鉄難波で地下鉄御堂筋線に乗り換え、再び梅田に出ました。妻が見てみたいと言うので、阪神梅田店2階の中川政七商店へ。奈良特産の萱製品の店でした。その後、阪神電車で芦屋へと戻りました。夜は妻の料理で帰宅した長男と一緒の夕食。これには団地近くのダイエー系のスーパーが役にたちました。
※2 カッターも刃物に違いなく、帰りは空路を予定していたので、これは長男に託しました。
4月13日(水) 晴れて暑い日が続きました さあ関西滞在の最後の日、この日は言わば予備日。帰路は神戸空港からの航空便でしたので、自然と神戸市方面へと行くことに。最寄りのバス停から、芦屋川沿いを阪急の芦屋川駅まで上がり、そこで阪急神戸線へと乗り換えました。降りたのは、六甲駅。その南側が昨秋亡くなった義母の幼い頃暮らした所だとか・・・。戦前からの市立六甲小学校もいまだ健在でした。一度下車したので駅には戻らず、そのまま西へと次の駅まで歩いたのですが、阪急電車の駅間距離が長いことを想定していませんでした。水道橋筋の長いアーケード街の途中で喫茶店に寄り、特大のワッフルをいただいた後、ようやく王子公園駅にたどり着きました。
しかし、めざすは駅西側にある神戸市文学館。そこには、さらに大通り沿いの坂を上らねばなりません。その文学館は、王子動物公園の西端にありました。ところが、水曜日が定休で、閉まっていました。ただ、発見もありました。関西の有力私学である関西学院大のキャンパスは西宮市上ヶ原にありますが、その出発はこの神戸の地にあると聞いていました。実はこの文学館の建物、関学発祥の地に残る洋館を利用したものだったのです。煉瓦造りの重厚な建物は、中に入れずとも強い印象を受けました。
神戸市文学館前に飾ってあったバナー プリントされた上ヶ原キャンパスはボーリズの建築で有名
さて、その後はバスで三宮に出て、クラシックな百貨店大丸神戸店に寄り、土産を買った後、その三宮始発のポートライナーで沖合の埋め立て地にある神戸空港に向かいました。16時台のスカイマーク便に乗って、東京へと帰京しました。
次回の関西旅行は6月を予定しています。
⑦2019年初秋 海外の旅『ドイツ南西部とスイスへの旅』そのⅠ
今年65歳を迎えて、再就職もしないまま夏を気ままに過ごした。そして9月に入った所で、遠く欧州へと旅立った。行き先は、なじみのあるドイツと久しぶりのスイス。9月にしたのは、教員時代にはできなかった夏休み以外の時期に出かけたかったから。また節約旅行のため、航空券のピークを外したことなどが理由だ。さらにスイスでは、ルツェルン(Lucerne) 近郊のピラタス(Pilatus)山へ登ることが主目的だった。
9月2日(月)曇天 午後の便で上海経由フランクフルト(Frankfurt am Main)へと向かう。中国東方航空の便は、上海での空港トラブルのため出発が遅れ、夜に成田を出発。上海に着くと長い乗り換え時間は解消され、急いでフランクフルト行きに乗り継いだ。搭乗したボーイング機は巡航速度が900㎞/h近くあり、翌朝5時台には早々とフランクフルトへと着陸。
9月3日(火)晴天 まずは空港のベンチで休憩。その後ターミナル2から鉄道駅のある1へと移動。レンタカー・ステーションに寄り、1から乗って2へ返すことができると確認。7時近くに1日券を買い、Sバーン(郊外電車)に乗り中央駅を越え、Ostend通り 駅で下車。数分で今夜の宿に到着。聞いてみると、たった2ユーロでアーリー・チェックインが可能だとのこと。午前中は、しっかりとベッドで旅の疲れをとった。
レーマー広場近くに、19世紀のフランクフルト国民議会が開かれたパウルス教会も現存。
爆撃にも耐えた大聖堂内の聖マリアの死を悼む彫像
昼頃に起きだすと、市電で都心へと向かう。レーマー広場(Römerberg)は晴天に恵まれすがすがしい。そこから東側の大聖堂へと向かう。その手前にローマ時代から中世にかけての都市の遺構が発掘され公開されている『考古学の庭』と呼ぶ施設に立ち寄る。1970年代の地下鉄工事の際に発見されたのだとか。その奥に大聖堂の入り口があり、見学客が多く急に賑やかになった。この会堂も御多聞に漏れず第二次大戦の1944年、英国空軍の爆撃を受け、内部は徹底的に破壊されたそう。しかし一部の聖者像が生き残った。50年代に再建。内部は落ち着いた雰囲気に戻る。神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた由緒ある聖堂。日本人のご婦人に呼び止められ、聞くとこの教会の会員で、夫君はドイツ人。この街に長く暮らしているそうだ。メルケル批判をぶつ保守派の女性だった。カトリックの上智大学史学科出身。同じ史学科でこの街在住の大澤武男さん※1とお知り合いではと聞くと、知り合いには違いなかった。そこから北の繁華街、ハウプトヴァッへ辺りまで歩く。銀行(この場合はSparkasse)のATMで初めて現金をおろす。夜は早速、ヴルスト(ソーセージ)とジャガイモ・サラダを賞味。ヴルストは正に、フランクフルト・ソーセージ。市電で宿へと戻る。
※1大澤武男氏は、2011年までフランクフルト日本人国際学校の事務局長。そのかたわら、この街とユダヤ人社会の歴史について著作を発表して来た。編集人も何冊か、氏の本を読了している。
ユダヤ人街北端(手前)へ再開発ビルが伸びている。そこに『ユダヤ人街の博物館(MJ)』が入る。
9月4日(水)晴天 朝、ホテルから住宅街を歩きレーマーの手前の旧ユダヤ人街へ。その昔、城壁の外に沿って細長く造られたゲットーがあった所だ。ユダヤ人博物館に入り、こちらも発掘で出て来たユダヤ人商店の遺構などを見学。その場所ベルナー広場(Börner Platz)から市電とSバーンの通しで空港まで戻り、車を借り出す。レンタカーは、2ℓエンジンのヒュンダイ。空港から出る時、少し迷ったが無事にアウトバーンA5号線を南下。ハイデルベルクの先で今度は西へ。ライン川を越えると大聖堂の塔が有名なシュパイアー(Speyer) の街へと入って来た。その世界遺産にも登録された大聖堂を訪ねるのだが、街にたどり着く所までは良い。しかし市中に入ってからが難しい。ガソリンスタンドで聞くことにした。例のセルフで、コンビニを兼ねた店舗に入り自分の停めた番号を告げるやり方が健在。そこの女性に聞くと大聖堂は近いらしい。言われた通りに行き漸く駐車場へ。9月に入ったとはいえ、こちらも温暖化か、夏の様な陽気。早速、ロマネスク様式の大聖堂を見学。巨大な建物で、四隅に同型の塔をもつ。この様式では、最大の面積をもつそうだ。脇の扉から入り西端の正面扉を出たところに、塔へ登る口もあり入ろうとするとチケットを買って来てと、女性の案内者に告げられた。外にある売店で券を購入。再び戻ると、この女性の案内で階上へと上る。上階には、大きなホール。歴史上の大事にここを使ったそうだ。その先はいよいよ塔への階段。後はご自分でと言うことで、シュパイアーが地元と言う女性と別れ、塔のてっぺんへ。晴天の下、ライン川を直ぐ東に臨む大聖堂と周囲の街が一望に。こちらは西側の塔。東に聳える塔が間近に望めた。
シュパイアー大聖堂の西正面 右上の塔に登る。↑↑
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者が立ち寄る街でもあった。道端に巡礼者の像 ↑
さてシュパイアーから往き来た道をA5号まで戻り、さらに南下。明日の夕方までにスイスのルツェルンまで行く予定なので、今夜はその中間辺り、温泉地のバーデンバーデン(Baden-Baden)に宿を取ることに。予約しておいたのは何とユースホステル。たどり着いた丘の中腹の宿は、緑に囲まれ何か心地よかった。他の宿泊者と相部屋かと思いきや、9月のせいもあるだろう、団体はいたが大人の個人は私のみ。受付の女性が一つしかない部屋の鍵をそのまま貸してくれた。朝食付きだが夕食は自分でということになり、丘を下り大通りに開いていたイタリア系レストランでピザを注文。ついでに頼んだ紅茶が、疲れた体にはとても美味しかった。宿舎前には大きな公園内にプールが点在。水着姿の老若男女が、行く夏を惜しんで芝に寝そべったりしていた。
温泉地だけあって、体温より高い源泉も。温泉へと続く旧市街の角には、泉(Brunnen)が湧く。
9月5日(木) 晴れから曇りへ ホステルから、この街の中心、テルメがあるクーアパークの地下駐車場へ。ローマ時代からのテルメの辺りまで散策。風呂に浸かる予定はないが、街の雰囲気だけでもと思い足を伸ばす。名前に似合わずとてもモダンなカラカラ浴場と、クラシックな石造りのフリードリヒス浴場の間の崖の擁壁に、体温より少し暖かい温泉が湧いて流れていた。さて、バーデンバーデンの緑を離れ、そのままライン川沿いにA5を南下。やがて車はスイスとの国境へとやって来た。事前に調べていて良かった。ここで「ヴィニエットなし(Ohne Vignette)」の表示に従う。スイス国内で高速道路に乗る人は、ヴィニエットというシールを買わねばならない。国境の女性係官がこれを持っていて、40スイスフランを請求される。そのまま手を入れてフロントガラスの内側にぺた!その他の手続きはなく、あっさり入国となった。直ぐにバーゼル(Basel) 市の一般道に入る。バーゼルは、世界的な大手薬品メーカーが複数本拠地を置く金持ちの街。寄ったのは、地元出身の画家アーノルト・ベックリン(Arnold Böcklin)※2の絵が蒐集されているバーゼル美術館。そして、美術館に近いやはりこの街の大聖堂。大聖堂は、その外側のライン川を見降ろすテラスが有名。ライン川はスイスでは東から西へと流れて来て、この場所で北へと向きを変える。そのため、テラスからは双方の眺めを一望できる。独特の景観だ。国際決済銀行(BIS)の並びにある地下駐車場に車を預けたが、高額の駐車料を請求された。これが何もかも物価が高いスイスの現実。この後も、高物価には神経を使った。
※2 19世紀後半に活躍した。神秘的な作風で知られる。代表作『死の島』。この絵とは東京で見て以来20年ぶりの対面だった。
バーゼルのライン川 奥から西流して来た流れはここで北へと曲がる。
中央の高層ビルは薬品メーカー、ロッシュの世界拠点とされているビル。
さて午後も遅くになってしまい、ルツェルンへと高速道路を急ぐ。スイスは九州ほどの国土だが、形は四国の様に若干横長。山岳風景が有名だが、北半分はなだらかな丘で構成される酪農地帯。道路の両側には牧野が続く。高速道路A2号を南下し1時間ほどでルツェルンに到着。見上げれば、雲間から南側のピラタス山が垣間見えた。隣接市になるのかクリーンスと言う高台の街にあるホステルに到着。無料駐車場は最後の1台だった。ここで二泊してピラタスに登る予定だった。このホステルは韓国人のスタッフで運営されていた。若いアガシが、観光客には市内交通が無料になるパスを印刷してくれ、早速バスで中央駅へ向かう。実はこの時期、ルツェルンはクラシック音楽の祝祭(festival)が催されていた。事前の調べで高額のチケットを買わずとも、そのコンサートの前座ともいうべき40分間の無料コンサートが時々上演されると知っていた。この日もその当日。メイン会場はKKLという駅前の芸術文化会館。バスから降りて素早く行動。長蛇の列の後尾についた。見ると地元の人らしい年配者が多い。開演30分前に列が動き出し、会館の中へと入ることができた。この日は、日本のN響も指揮したことがあるリカルド・シャイイ(Riccardo Chailly)が普段着姿の団員たちに指揮を執った。高物価のスイスで無料コンサートとは!得した気分だった。しかし覚悟はしていたが、演目はAシェーンベルクの12音階の作品。難解で不協和音が響く。さすがに幼い子連れの客は、途中で退散していた。それでも、音楽を愛する人が集う場の雰囲気に、私は感動を覚えていた。
指揮者のシャイイが登場する前のKKLのホールに、普段着姿の団員が集う。
KKLはルツェルンの湖、フィーアヴァルトシュテッターゼーへの観光船の桟橋に隣接。
スイスの道路地図 赤い線は高速道路 Lucerneは地図のほぼ真ん中
⑦2019年初秋 海外の旅『ドイツ南西部とスイスへの旅』そのⅡ
9月6日(金) 午前は雨、午後は移動して晴れ ルツェルンは2000mを越える山々が直ぐ南に迫り、土地の標高も400mを越え、この北の国では高原と言ってよい冷涼な土地。天気も山岳気象ではと思うほど変化が速い。ホステルのロビーでテレビを見ると、この日は西から温帯低気圧がスイスを通過する予報。これでは、雲に覆われたピラタス山に登るわけには行かない。そこで予定を変更。晴れを求めて西へ。スイス西端のレマン湖とその街ジュネーヴ(Genève)を目指すことにした。クリーンスから高速を選ばず、田舎道を西へ。何度も道を聞いて時間を消耗した。ズールゼーという湖の街から高速に取りつくが、1時間以上かけた割にはルツェルンの隣町に達した程度だった。その後は高速でベルン(Bern) へ。その市街地をかすめる頃にはすっかり空も晴れ、好天が迎えてくれた。高速道路A12を南下。フリブールの街を通過する地点で、言語はドイツ語からフランス語に変わった。そして食品会社ネスレの本拠地ヴヴェイ(Vevey)に達する。眼前に広がるのは東西に細長く横たわるレマン湖。対岸には、遠くモンブラン山塊へと連なるアルプスの山々。風光明媚の一語に尽きる。ここヴォ―(Vaud)州は、ジュネーヴ生まれの思想家ジャン・ジャック・ルソーが『人間不平等起源論』を書きあげた時、人間の自然状態を語る際にそのインスピレーションを得た所とも言われている。この晴天の下で凛とした湖を眺めると、その自然の美しさに深いものを感じた。
ジュネーヴの手前ヴェルソア(Versoix)の街のマリーナで この頃には曇天に戻ってしまった
レマン湖の北岸を西へと進む。ローザンヌ(Lausanne)の街が見えて来た。ガソリンが少ないので高速を降り、直ぐのステーションで入れる。ショップで買ったドーナツは美味だった。坂を下り、旧市街へと入るが複雑で、湖まで降りる道も分からず引き返した。再び高速に乗り西へ。ジュネーヴが近づいて来たので、手前のコぺ(Coppet)の街で再び湖岸沿いの一般道へ降りる。郊外の安宿を探すが、そもそも安宿自体がない。そのままジュネーヴの街へと入って来た。この街の国際連盟本部に縁のホテル・プレジデント・ウィルソンを通過した所で西へと入り、またしてもユースホステルを訪ねる。ここでもどんな部屋なのか、1万4千円の部屋しか空いていないと言う。直ぐに退散し、もう一つの当てジュネーヴ市立大学の寮を目指す。ガイドの地図の外側で見当をつけにくく、漸く学生さんらしい人を見つけるとこれが日本からの留学生と日本文学を学ぶスイスの娘さん達。村上春樹や夏目漱石の話を続けるわけにも行かず、宿の当てを聞くと、この先数百メートルのバス停の所だと言う。たどり着いた寮の受付では、9月以降は一般学生向けになるので部屋はないと、にべもない返事。さあ困った。ジュネーヴで節約ツアーをすること自体に無理があると悟って、今度は東に迫る国境を越えてレマン湖南岸のフランス領へと逃げ出した。道路が交差する要衝、ドヴェーヌ(Douvaine)の街まで来るとその市役所の前にホテルがあり、こちらは数千円で泊まることができた。やれやれ。
ドヴェーヌの市役所(Hotel de ville) 正面上にフランス革命の標語、自由・平等・博愛の文字
9月7日(土) 天気晴れ フランス語圏に入ると宿では決まって朝食はつかない。宿の周りが商店街なので、近くのパン屋に寄ってパンとコーヒーを購入して済ます。さてジュネーヴで寄るとしたら、若き頃立ち寄った都心の丘の上、サンピエール聖堂だ。ここは500年前の宗教改革の聖地。フランスから呼ばれたジャン・カルヴァンが改革の実を上げた地だ。しかし、先ずは市中に入り駐車場を探すと言う現実的な問題が。レマン湖の大噴水に近い道路沿いに駐車し近くの路上にある機械を操作。しかしこれが良く分からない。近くにいたアジア系の青年に聞くと、機械にマイカーのナンバーを打ち込んで、コインを投入するやり方だと言う。青年は中国湖南省出身だった。そこから丘を登り聖堂を再訪。そして隣接の国際宗教改革博物館を見学。奥のオーディオ・コーナーからは「ジュネーヴ詩篇歌集」の美しい合唱の音が響いていた。自分の土産にCDを買った。
ジュネーヴ都心、リヴ(Rive)広場付近の生鮮市 レマン湖畔のブリュンスウィック公の霊廟
丘を下りフランスではおなじみのカルーセルを見て、足早に車まで戻る。この後、国際連盟の旧本部も是非と思ったが、こちらは駐車場が見つからず外から覗くだけになった。この時ばかりは自動車での移動の欠点を思った。そのまま東へと戻ると、道は自然と高速道路になる。この日は今度こそピラタス山へ登るため、その近くまで戻ろうと考えたが、往きとは異なりローザンヌの手前からA9を北上しヌーシャテル(Neuchatel)湖の畔の街イヴェルドンをかすめそのままA1へと入りベルンへと戻る。ヌーシャテル湖の風景は、山国スイスにしては平坦な地で、背景のジュラ山地も我々には丘陵かと思うほど低い。さてベルンからどうするか。ピラタス山麓には南回りで行く道があるので、進路を南にA6をベルンの後背地、ベルナーオーバーラントへと向かう。左にトゥーン湖が見えて来た。その中ほどのシュピーツで降り、湖岸沿いの道を隣のファウレンゼー(Faulensee)へ。いつかここを再訪したいと思い、何と42年が経ってしまった。学生時代の最初の欧州旅行の際、立ち寄った場所だ。当時泊まった宿も健在だったが、土曜の晩で思うような値段では泊まれなかった。それでも風景に変わりはなく、写真のような山と湖が迫っていた。
ファウレンゼーのホテルSeeblickの先、遊歩道からトゥーン湖と対岸を写す
道をさらに進めると山岳観光のメッカ、グリンデルヴァルトの入り口インターラーケンでトゥーン湖とはお別れ、続いてブリエンツ湖が見えてくる。この辺りになると、ますます山が深い。そこを過ぎてから北にそれて山道を登る。ブリューニヒ峠を越えると、いよいよルツェルンへの道。その最初にルンガルン湖を見下ろす絶景にお目にかかった。晴れからいつの間にか曇天へ。ルンガルン湖の先ではザルナー湖がお出迎え。その北岸ザルネン(Sarnen)の村に達する。ネットで見つけていたRuderhaus Garniと言う公共の宿を目指すが、ここからが大変。目抜き通りにある村一番の旅籠とおぼしきHotel Krone Sarnenで聞くと、愛想の良い娘さんが村の案内図に印をつけてくれ、それを頼りに漸く達する。ところが受付には誰もおらず困っていると、同宿の青年が暫く待てば帰って来ると親切に教えてくれた。ここで二泊することに。
ルンガルン湖とギュプフィ山
ザルネンからピラタスの麓アルプナハシュタット(Alpnachstad)までは車で直ぐ。夜、その下見を兼ねて夕飯のため外出。登山電車の駅を確認後、さらに湖沿いに北上。どうも軽い風邪をひいたようで、何か栄養価のあるものを食べねばと、次のヘルギスヴィルという街のタイ料理のレストランに入った。トムヤムクンの美味しかったこと。ココナツミルクの醸す深いコクに舌鼓を打った。部屋は8人部屋を一人で占領。明日は登ろうと眠りにつく。
9月8日(日) ところが翌朝の天気は芳しくない。部屋の窓から遠くに見えるはずのピラタスは、顔を出してくれない。その語源は、イエス=キリストを磔刑に処したローマ総督ピラトの名からだ。彼の末期は知られず、この土地では死にてなお亡霊となり山にさまよっているという伝承がある。雲に覆われるピラタスのイメージと重なり合う。登山は諦めて、日曜なので村の教会に寄る。いつもの事なのか、少ない会衆者(参加者)にカトリックの司祭は淡々と語りかけ、式が進行。私の他に旅の途上と思われる家族連れが一組いた。雨降りだと9月でも気温は10度台。その寒さの中、午後にはルツェルン観光を先にと言うことで、数日前にやって来たKKLのホールまで来て、その地下に駐車。
↑↑ルツェルン旧市街の「ワイン市場」の泉 あいにくの雨 中国韓国の団体旅行者が目立った
↑ 壁絵の描かれたレストラン
↑カぺル橋が斜めなのは、ここが背後の街を守るラインだったから
ルツェルンはフィーアヴァルト・シュテッターゼー(四つの森の地の湖の意)の北西端。この湖の周りスイス中央部は、スイス連邦発祥の地で、都市よりは農村が中心。宗教改革が都市中心に進んだのに対し、この地では頑としてカトリックを守り続けた。そして中世には傭兵を外国に派遣して稼いだ伝統をもつ。こうした歴史が、保存の良い旧市街を残すことになったのか?湖から流れ出るロイス川の北側を散策。雨が降ったり止んだり。この街もオーストリアやドイツにも広がる壁絵の街で、建物の外壁に様々な絵が描かれている。ロイス川を南にわたる所に例のカぺル橋やシュプロイアー橋。そして南側には、イエズス会やフランシスコ会の立派な聖堂も。寒さと雨に耐えながら歩いた。
9月9日(月) 晴れが戻った。良く寝たせいか、体調も悪くない。朝食で食べたエメンタール・チーズが気に入った。さて、ピラタス山。何故この山に登ろうとしたかと言うと、日本でのトレッキングのお気に入りである北八ヶ岳に入る際、しばしばお世話になるのが日本のピラタス・ロープウェイ。長野県茅野市の蓼科高原の奥にある。この名の由来が、本家スイスのこの山とそれに登る登山電車だったと言うわけだ。そんな縁で、素晴らしい眺望も得られると言う山頂に、立ちたかった。ラックレールという形式の登山電車は一両ずつ登って行く。所要30分。麓のアルプナハシュタットは晴れていたのに、山頂は晴れたり曇ったり。見下ろすルツェルンの街やフィーアヴァルト・シュテッターゼーはなかなか顔を出さなかった。それでもまだ9月だというのに、山頂部は昨日までに降った雪がつもり、貴重な経験。外ではピラタス・クルム(-Kulm)というホテルの従業員がアルプホルンを奏で、展望室の中では男女四人の壮年世代がヨーデルを唄って歓迎してくれた。
⇑⇑あの赤い電車で山頂を目指した ⇑山頂の登山電車駅周辺は雪が積もったまま
⇑下を見下ろすと谷の上に雲
そしてここから、1700m近い高低差を歩いて下ることに。下るに連れて斜面の緑が増え、天気も回復しアルプと呼ばれる牧野が展開。静かな谷にカウベルの文字通り牧歌的な響きが聴こえて来た。チーズを作る工房があったり、水飲みの場が用意されていたり。やがて、麓の街や野原、そして対面する山々の美しさが際立ってきた。花を各窓にあしらった美しい農家があるかと思えば、駅までの歩道とされている道が牧場の境界に沿う牧草の上をたどる道だったり。楽しい山旅となった。何より道を聞くと沿道の人達が、丁寧に道順を教えてくれたり親切で、スイスの人達のホスピタリティーを感じた。
昔ながらの素朴な作りの農家 背景にはシュタンザーホーンの頂き 湖はアルプナッハ湖
麓の駅の駐車場にたどり着き、今回の旅のハイライトは終わった。その足で一路ドイツへと帰りの道へ。往き来たライン川沿いのアウトバーンA5をたどり、バーゼルからドイツへ。その晩はフライブルク(Freiburg)のグリーンシティー・ボーディングハウスという施設へ。この時も宿の位置を特定できず、探すのに苦労。駅前に移ったホテル・ノヴォテルでPCを利用させてもらい、地図を出力してそれを見ながらたどり着いた。
9月10日(火) 天気 晴れ
フライブルクは環境に優しい街 縦横にトラムが走る
ドイツでは珍しく朝食抜きの宿だったので、隣のスーパー・エデカ(EDEKA)のイートイン・コーナーでクロワッサンとコーヒーの朝食。午前中は宿から自転車を借り出し、走って15分ほどのフライブルクの都心へ。3度目のフライブルク。「日本の街・世界の地域」で紹介したフライブルクで、まだ行っていない東側の城山に登り、市街地を一望。「環境首都」の別称があるだけあって、車でなくトラムや自転車での公共交通には、とても配慮されている街。宿舎の屋根には太陽光発電のパネルが敷き詰められていた。
昼はカリーヴルストの名店でテイクアウトして食べる。そして宿に戻り先を急ぐ。A5をひたすら北上。フランクフルトを越え、北へ。ようやくマールブルク(Marburg)の手前、リンデンという街の宿にたどり着いた。
9月11日(水) 天気 快晴
最後の訪問都市、マールブルクへと向かう。若き頃、ハイデガーの『存在と時間』をかじり読み、実際は参考書で得るものが多かった彼の思想。近年の彼の弟子、ハンナ・アーレントのちょっとしたブームなど、マールブルクはその焦点になることも多い。と言うわけで、一度は寄って行こうと思っていた。街の手前から、遠くにこの土地ヘッセンの方伯城が見えて来た。その丘の麓、ラーン(Lahn)河沿いに大学街は展開している。印象に残ったのは、その方伯城。眺めがよく、併設の郷土博物館で彫刻や実用の家具などを見た。そして坂を下って聖エリザベトを記念した教会を見学。中世キリスト教文明が高揚した13世紀、一人の心優しいハンガリー出身の王女がいた。東方のテューリンゲンで、そしてこの街で、エリザベトは弱き者、貧しき者のために生きた。わずか24歳で死没。死後、この女性を惜しむ人々は聖人として崇め、この街への巡礼が続いたと言う。彼女の墓の上にゴシックの会堂が建てられ、宗教改革でプロテスタントになった後も、人々の信仰の中心として維持されてきた。ラーン川沿いにある大学図書館は、近年新築されとてもモダンで広大な建物だった。その低地から旧市街の高台に上がるため大通り沿いのエレベーターを利用。上がると、そこは石畳の坂に古い構えの商店が並び、別世界に導かれたよう。この街の造りは面白かった。車を停めたイトーヨーカド―のような立体のモールに戻る手前、道路沿いの一角が緑芝の更地になっていた。ここはかつてユダヤ教徒のシナゴーグがあった所だという。そのことを記念して公園になっていた。
方伯城の丘から聖エリザベート教会の方向を見おろす
⇑⇑河沿いの低地から高台へと上がるエレベータ ⇑大学街らしい古書店のウィンドー
この日、何するでもなく、穏やかな陽気の下、この地方都市で過ごした。そして日が傾く前にここを発ちフランクフルト方向へと戻る。アウトバーンの渋滞(メッセで自動車ショーが開かれていた)に会い、それならばと一般道に降り、市街地の東寄りでフランクフルト東駅に近いヨーロッパ中央銀行の巨大な建物を外から見学。改めて、ヨーロッパの金融センターと言われるこの都会の一端を理解した。宿は、空港の先、マイン川南岸の街、リュッセルスハイム(Rüsselsheim)に取り、明日の帰国に備えた。
9月12日(木) 午前の中に空港のターミナル2の駐車場へと入り、車を返し、昼過ぎの便で帰国した。
⑥2019年初夏 中国の旅『遼寧省瀋陽と撫順への旅』
初めての海外留学と言ってよい大連での滞在は、今年7月をもって終わり、帰国した。その直前、これも予てから考えていた大連と同じ遼寧省内の省都瀋陽と、満州時代、日本との関わりが深かった撫順へと足を向けた。
7月3日(水) 前日に学期末試験も終わり、後は終了証をもらうだけとなった身で、旅に出た。瀋陽へは2004年の旅で8時の特急に乗り12時に着いた覚えがある。それを高鉄(新幹線)に乗り、所要の半分で移動しようとした。出発駅も新たにできた大連北駅で、8時半発の切符を事前購入しておいた。ところが、その出発に5分遅刻。ゲートはしっかりと私の切符を通させなかった。次は9時台の列車を探すが、先ずは窓口で退票処理(キャンセル)をして改めて発券窓口で列車を探した。キャンセル料は取られず9時発の列車に乗ることができた。日本の新幹線をイメージした列車は、スマートに瀋陽へと向かった。高架の部分も多く、街を遠くから眺めることもできた。
瀋陽は戦前、奉天と称していた都会。後に清を建国した女真(満)族の長ヌルハチが、都を置いた歴史をもつ。
⇑⇑皇姑屯事件博物館内の現場のジオラマ ⇑現在の実際の現場 反対方向から
到着した瀋陽駅西口からタクシーで向かったのは、北方の『皇姑屯(HuangGuTun)事件博物館』。近くに同名の駅があり、さらにその近くに戦前の重大事件「張作霖爆殺」の現場があった。今思えば、私が世界史の教員になった原点は、子供時代に張作霖爆殺の歴史に触れ、日本の昭和前期は何と暗い時代だったのか!と慨嘆したことがきっかけだったのではと思う。そのため、日本史を選ばず世界史の教員となったのだ。事件は北京から引き揚げて来た満州の軍閥の長、張作霖が瀋陽の日本の満鉄の線路と交差する地で、走行中の列車毎爆破され暗殺された事件だった。日本の帝国主義が露骨に出たもので、首謀者は満鉄とつながる関東軍関係者だと言われている。2004年に現場を訪問した時は、この事件を記録する専用の施設は未開設だったが、今回はこの『博物館』が造られていた。展示は事件だけでなくその背景にも触れ、張を利用して満州進出を図る日本が、張の部下郭松齢が張に反抗した際には、日本の外務省が動き関東軍が介入した前史があったことなどにも触れていた。時の奉天(瀋陽)総領事は、戦後の首相、吉田茂だった。博物館を出て現場は近いはずと歩き出すが、線路沿いの道にはその面影もない。団地内の道で年配者に聞いても、らちが開かない。立体を渡ったり公園内の道を歩んだり2㎞近く東に行くと、漸く現場を見つけた。鉄道は拡幅されそこに高鉄(新幹線)車両も走り隔世の感だが、交差点では今も上下ともに現役の線路が走っていた。
西塔街のシンボル、チベット仏教の延寿寺内に立つ、西塔。
ガイドの地図には、現場のすぐ東には中国最大級のコリアン・タウン、西塔街があると出ている。そのままハルピン路の高架をくぐって西塔街を南下。それにしても暑い。見つけた超市(スーパーマーケット)で水を買い、喉を潤す。わずか500mほどだが、道行く看板にはハングルが氾濫!異国的な趣だった。この地区の西南端に延寿寺と言うチベット仏教の寺院があった。残念ながら中には入れなかったが、見上げればその仏塔が望めた。これが西塔街の名のおこり。瀋陽がその昔、満州民族(女真)の都になり首領ヌルハチがチベット仏教を保護したため、瀋陽の四囲に東西南北と仏塔を建立した名残なのだそう。内陸の暑さにやられ、この後はホテルに急ぐ。バスを乗り継ぎ、今夜の宿『錦江イン』へと向かう。
フロントで出迎えてくれたのは、胡と名乗る若い女性。鍵をもらい漸く部屋に入ると、胡さんから電話が。狼狽したような声で「マネー」と言われる。ネット予約だったため、宿泊費をすでに払っていたと勘違いしたらしい。直ぐに払いに行きましょうと返し、一件落着。それにしても胡さんの眼鏡姿は地味な女教師のようで、一般のホテル従業員とは違う印象を持った。胡さんについては、予定する『大連日記から』の「出会った人」で紹介しよう。夕方は、地鉄駅「太原街」まで歩き、乗り換えて「市政府広場」へ。駅から入られる地下街は、最近できたばかりの恒隆広場というモール。香港系の百貨店だが、ブランド・ショップが並び贅沢な空間だった。そこから地上に上がり、西へと歩む。この地の名物である餃子の専門店目当てだったが、その前に昼間の吉田茂が気になり、瀋陽迎賓館という宿泊施設へ。広い緑地をもったその建物は、戦前の日本総領事館だという。入ってすぐの迎賓館北苑は確かにアールデコ様式の往時を忍ばせる建物だった。庭に廻ってテラスの造作なども見せてもらった。さて水餃だが、こちらは目当ての場所にあらず残念。その足で瀋陽駅前のシュウマイの店へ。ガイドにあった庶民的な価格ではなくなっていたが、おいしいことに変わりはなく満足した。
旧総領事館 昭和前期のクラシックな建物瀋陽の中山公園で 手前にレンタサイクル
太宗ホンタイジの像と彼の眠る廟 方城からは南に瀋陽都心のビル群が遠望される
7月4日(水) この日も晴れて暑かった。昨日の暑さにやられ、出かけるのは10時過ぎになった。地鉄を利用して北陵公園駅へ。正式には昭陵と呼ばれるヌルハチの子ホンタイジの墓だ。北へ続く参道だけで1.5㎞はある広大な園内を脇の緑道を頼りに暑さをさけて進む。陵墓には中庭を囲む宮殿のような建物「方城」があり、大きな丸いマウンドの墓はその背後に備わっていた。建物の屋根は黄金色の瓦で葺かれている。ホンタイジは北京に入って清の初代太宗となった人。残念ながら北京の明十三陵のように、地下に潜って内部を見ることはできなかった。この日も暑さにやられ、ホテルに戻ってシャワーを浴び昼寝。夜、15年前にも訪れた中街へと出かける。
⇑⇑瀋陽旧市街に残る城門「大西門」 ⇑中街の一画には貴金属の店が並ぶ
この瀋陽一の繁華街は瀋陽駅や北駅から、大分離れている。人口700万の都会でこれらを結ぶ公共交通がバスしかなかったのだ。往きは敢えてバスで出かける。当時のすし詰めのバスは最早なく、拡幅した通りをゆったりと進む。中街入口と言ってよい大西門で下車。その門をくぐって瀋陽故宮へと向かう。ここも百年以上前にタイムスリップしたような、クラシックな作りの商店・建物が並ぶ。さて北に折れて直ぐの中街の賑わいの中へと進む。道中に買ったコーラをアイスクリームにかけてフロートにしようと思い、アイス店に立ち寄り何もシロップをかけないアイスを注文するが、英語では通じず四苦八苦。見かねた列の後ろの客がスマートフォンを掲げ、英語で言ってみてと促された。出て来た漢字に覚えがあり、これだと店員に示すと分かってくれた。こうした翻訳ソフトを使いこなすのが現代風なのか。スマホ様様だった。通り一本北側には、AKB48ならぬSHY48の劇場もあるそうだがさすがに遠慮した。中街は一本道の繁華街だが、専門店街など中に入ると通りから100m位奥まで店が続く大規模店も多く、横への広がりもある地区。若者を中心に夜遅くまで賑わっていた。帰りは新設の地下鉄であっさりとホテルへ戻る。
7月5日(木) この日も晴天。午前9時半過ぎのバスで、東方約50kmの撫順市をめざす。瀋陽駅東口で乗車したのは、撫順とを頻繁に往復する雷鋒号という中距離の都市間バス。雷鋒とはこの地出身の人民解放軍の英雄だそう。途中、浮き輪をもった家族連れがプールのある公園前で数多く下車。それから間もなく撫順市内へと入る。この街は戦前、満鉄が石炭の鉱脈を発見し、以来石炭採掘の街として発展して来た。整然とした街並みが広がるが、そこに鉱山技術大学や「中国石油」の石油化学研究所やらが立地しており、炭鉱業の街らしい施設も。駅南側のターミナルまで1時間半の行程だった。
鉱山技術大学の正門
西参観台から見る撫順の露天掘りの炭田
さて露天掘りの炭田は、その南側に東西に長い形で広がっていた。これを囲むように環状にバスが走る。時計と反対周りに露天掘り全体を見渡す「西参観台」を目指すが、最寄りというバス停で下車後かなりあり、道も分かりにくく漸くたどり着く。ゲートで見学希望を告げると、まだ11時半なのに昼休みだと言う。1時まで開かないと言う。そこで来た道を引き返し、バスも時計回りに戻り、東側の平頂山惨案記念館へと急ぐ。広い前庭をもつ記念館は真新しく、モダンな建物。1932年9月の犠牲者3000人ともされる関東軍による住民虐殺事件を紹介。同じ敷地内には『惨案遺址』と名付けられた銃殺・生き埋めになった箇所を発掘し露出させ、屋根を被せて展示・保存している建物もあった。その遺骨は無言で残虐な行為を告発しているかの様だった。前日の炭鉱への反日勢力による攻勢の報復のためだったが、村民皆殺しは正に見せしめの行為だったと言える。それから10年後、ナチス支配のチェコで冷酷で知られたラインハルト=ハイドリヒがレジスタンスにより暗殺された。そのレジスタンスを匿ったとしてプラハ近郊の鉱山労働者の村、「リデツェ」が村民もろとも消し去られた事件があった。相似した事件として思い出した。この街で育った女優李香蘭(山口淑子)は、自宅前で起きた憲兵隊による中国人容疑者の処刑を垣間見たと言う。またその父文雄は中国語教師として中国側に内通していたのではと、一時拘束されたとも言う。これを機に山口家は瀋陽に移るが、平頂山での惨劇は、日本側では誰も語らず口をつぐんでしまった。真相は敗戦後に明らかに・・・。しかし憤った中華民国政府はジュネーブの国際連盟に提訴。オレゴン帰りで弁が立つ松岡洋介でさえも、答弁に窮したと言う。(山口淑子著『李香蘭 私の半生』より)
平頂山の惨案遺趾で タクシーが寄ったのは天然ガスのスタンド
さて記念館を出た後、改めて今度はタクシーを使い炭田の南側を回り炭鉱を俯瞰する「西参観台」へと向かう。このタクシー、「スタンドによる」と言うので付き合ったが、後ろのタンクでなく前のボンネットを開けて細長い鉄の棒を突き刺すのでびっくり。大連でもバスの殆どがハイブリッド車両だが、このタクシーは天然ガスのCNG車だった。初めての光景を目にした※。再びやって来た参観台は、この炭鉱を紹介する展示施設を先ずは見て、それから10階の展望台へと上がる。かつては苦力(労働者)の人海戦術だった掘削も、今は大型重機に変わった。しかし今なお、露天掘りの底近くまで貨物線路が伸びていて、そこから石炭を積んだ列車がゆっくりと弧を描いて地表へと上がって来るのが見えた。しかも遠目にだが、同様な採掘の現場を周囲に幾つか望むことができた。※電気自動車ではありませんでした。訂正します。
戦後にできた煤都賓館の新館 国営ホテルの趣だが、フロントのホールは美しかった
今夜の宿は、満州国時代の大和ホテル、即ち満鉄が経営していたクラシックな建物で、煤都(Mei du)賓館の名で戦後も使われているホテルにした。撫順駅の東南の高台にあり、駅から坂道を登って行くと、やはり庭園を備えたホテルに出くわす。クラシックな旧館のフロントで尋ねると、宿泊は別棟の新館で受け付けていると言う。案内されると、部屋は幸い空いていた。モダンだが、一世代前の国営ホテルといった趣き。後で分かったが、個人客は殆ど宿泊しないよう。フリーWi-fiがあり、スマホには、大学の仲間からのたくさんのチャットが入って来た。この日行われた、修了式の模様を伝えるものだった。担任の劉先生からは出席を促されていたが、すでにこちらへの切符を購入済みで来てしまったから、お断りするしかなかった。チャットを「月面にいるから、戻ることができない」と冗談で返していた。しかし、楽しそうなチャットの中身に、幾ばくかの後悔も。夜は駅前に赴き、芸の無いマックでフィレオフィッシュで済ます。しかしこんな時も、一人ぼっちの旅行者を助けてくれる店員さんの親切に、出会ったりした。坂道を上り媒都賓館へと戻ると、ホテルの裏庭は水を模したハイテクの光に溢れたビアガーデンになっており、大勢の客が集っていた。
7月6日(金) 旅の最後の日。晴れが続き暑かった。
ホテルの朝食は、個人客は私一人らしく、食堂へと赴くとビュッフェ形式だが何もかも少量。間もなく片付けが始まってしまい、このサービスのなさが国営ホテルだったという印象を強めた。しかも軍人だか公務員だかの団体が別室で食事をとっていて、服務員の関心はそちらに集中しているようだった。
坂道を下り駅前からのバスでこの街を東西に貫流する渾河(Hun he)を渡り、北へ行くと、バス停にも「戦犯管理所旧趾」の名。そこを降りて来た方向に戻ると、撫順での最後の訪問予定地が現れた。敗戦後に満州国の責任を問われた人々を収容した「旧戦犯管理所」だ。その後刑務所として使われていた施設は、現在当時の建物のまま展示施設となっている。セキュリティーを通って、敷地内へと入る。平屋建ての細長い建物が縦横につながり、見学順路に従って戦犯たちの罪状の説明や暮らしがわかる展示などを見て回る。ここに収容された大物と言えば、満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀が先ず挙げられる。それまでの人生で、自分で服を着ることさえなかった溥儀は、ここで普通の人間として扱われることに慣れず、最後は付き添っていた部下にも呆れられ、生活のイロハを漸く学んだと言う。ここでロケが行われた映画『ラスト・エンペラー』に描かれたままだったそう。その彼が寝起きしていた部屋は、他の房と同じ質素な作りだった。収監された日本人の多くは、満州国の官吏としてこの国家の実質上の運営者だった。ここで満州での帝国主義の末端を担っていたことを反省するよう、新政府としての共産党政府から強く促された。戦前の日本のあり方を真から反省する人もいれば、形だけ従った人もいただろう。いずれにせよ、初めソ連に抑留され過酷な生活を強いられた収容者は、ここでは寛大に扱われた。そして収容者の多くは神田駿河台帰りの周恩来の計らいで、宣告された刑期よりも早く帰国したそうだ。
撫順の街を南北にわける渾河
⇑⇑撫順戦犯管理所には、このような理髪室もパン工房もあった
⇑溥儀のいた部屋 自ら裁縫をしている場面
中国側の団体がさっさと通り過ぎる中、展示をじっくりと見ていたのは私だった。そこに親子連れが通りかかり、母親が「日本人ですか」と聞いて来た。そうだと答え、「歴史の教員だった身として、何があったのか知らなければと、ここへ来た」と答えた。母親はそれに微笑んで、かつての敵国の私に好感をもってくれたようだ。その後、父親とも軽く会釈した。二人は、子供たちにかつてこの地で何が起こったのか教えるためにやって来たと語った。
瀋陽へは、往き来た道を戻ることにして、あの雷鋒号に乗って撫順を後にした。瀋陽駅に戻ると、予約した高鉄に乗るまで2時間近く余裕があった。そこで向かったのが、徒歩で行かれる「中山広場」。大連のそれと比べると一回り小さいが、そこに満州時代の日本の面影を残す大和ホテルも遼寧賓館の名で健在だった。実はこのホテルに、2004年夏の旅行で泊まったことがあった。クラシックでとても端正な外観とインテリアだった。日本の宿泊施設らしく、地下には大浴場も備えてあった。中でも朝食の会場にもなった大広間は、ルネサンスの画匠ボッティチェリの作品をレリーフにした内壁をもつ上質なインテリアだった。そこを再訪することができた。あの事件の後、瀋陽に移った山口淑子はロシア人のオペラ歌手から習っていた歌唱を、ここの舞台で披露する機会があった。その時、満鉄の宣伝部員の目にとまり、やがて女優李香蘭としてデビューすることになったのだそうだ。戦後70年を経ても、この地には戦前の日本を思い出す土地と建物が数多く残っているのだ。
遼寧賓館を再訪 優雅な大広間のインテリア
賓館のエレベータ 上には雅な黄金のレリーフ
夜6時台の高鉄に乗り、大連駅へと戻った。この間、内陸の乾いた所にいたからだろう。海に面した大連市の空気は、ほんのり湿気を含み潤いを感じるほどだった。駅前からは、モダンなトロリーバスで、大学近くのバス停まで帰ることになった。
帰路の高鉄(新幹線)は、大連駅が終着だった。
⑤2019年春 中国の旅『河南省開封と鄭州への旅』
大連留学中の日々は「大連日記から」のページで記述する予定です。ここではその留学中に出かけた、黄河中流部の開封と鄭州への旅行を記すことにします。
平成から令和への代かわりの時、日本では例年にない長い連休となったが、中国留学中の身の私にも、予想外の長い休日が訪れた。元々中国でも5月初旬は労働節の連休だったが、大学ではその前、4月27日(土)からまるまる1週間の休みとなった。この時期に出かけないという選択肢はない。という訳で飛行機を使って遠くに出かけようと調べてみると、河南省鄭州を往復する案が浮かんだ。鄭州は観光地ではないものの、東隣の開封は一千年前の北宋の都で、予てから行ってみたかった地だ。そこで5月の労働節を前に、29日(月)から四日間の旅に出かけた。
早朝、大学宿舎の夜間受付を担当する劉金柱さんが遅れないかと起こしに来る。6時半起床で間に合うと言ったが、6時で起床。7時15分には出発。近くの馬蘭広場駅から地(下)鉄で空港(机場)駅へ。わずか四駅。スムーズにセキュリテイを通過し、チェックイン・カウンターへ。身分証としてのパスポートを提示すると、それだけでチェックインも出来てしまう。これを喜ぶべきか?この国では、国民も私のような外国人も、どこに行こうと全てこの身分証でその動向が監視されている。今回の場合、ネットで事前に航空券を購入の際、パスポート・ナンバーを求められた。だからそのパスポートさえ提示すれば、航空会社のスタッフは私が9時15分発鄭州行きの西部航空便に乗ることを確認できるのだ。
新鄭州空港の地下鉄へのコンコース 床はピカピカ
機は30分遅れの9時45分出発。何でも鄭州の視野が黄砂で遮られ、遅延しているとのこと。機内は旅行客でいっぱいで、席は窓のない中側の通路沿い。乗客は初めての空の旅の人も多いようで、マナーも宜しくない。2時間のフライトが終わる時、出口へと我先に急ぐ乗客には閉口した。新鄭州空港は、新しいだけでなくその巨大さに圧倒された。空港を出て地鉄の駅へ向かう。白い大理石のフロアが延々と続く。その先を地下に降りて漸く駅へ。どうも中国人は大きなものなら何でも立派と思うのか、とにかく巨大なものが好きの様。大連を含め各地に新しくできた公共建築物は、その大きさを競っている。
今回も節約を心がけ開封へのリムジンには乗らず、この地鉄で先ず鄭州市内へ。そこから城際(都市間)バスに乗り開封へ向かうことにする。大連とそっくりでしかも真新しい地鉄で1時間。都心の紫刑山駅で1号線に乗り換え、鄭州東駅で下車。この高鉄(新幹線)駅も巨大で、乗り換えるのに足が疲れた。駅東側のバスターミナルに入ると、ここでも身分証によるチェックを受ける。パスポートを見せると外国人客は珍しいらしく、服務員は戸惑っていた。通り抜けると開封専用の乗車口が奥にあり、行き先が開封であることを確かめて乗車。バスの車体は路線バスのそれで、開封へと真っ直ぐに進む鄭開大道を途中のバス停で客を拾いながら進んだ。おかげで、開封駅前のターミナルに着いた頃には、午後4時を回っていた。これもネットで予約してあった『YueTing ホテル』へ向かうが、駅前の警察で道を確認。若い警官はスマホを取り出し、ここだと地図を示した。20分の道のりを歩く。何か埃っぽいと思ったら、散水車が道に水を撒いている。なるほど、これが飛行機を遅延させた黄砂だとわかった。
ホテルは新設の高層住宅街と一体になっていて、中庭には子供たちが遊具で遊ぶ姿も。外の雑踏とは別の世界だった。シャワーを浴びて日も暮れつつある街へ。ホテル前のバスに乗り、ライトアップされた『包公祠』という名所周辺へ。その由来等も知らぬので、今回は入場せず。目の前の湖沿いを歩く。包公湖は都心の湖で、対岸の夜景がきれいだった。柳をゆらす夜風が心地よい。さらにバスに乗り、開封一の繁華街「鼓楼」周辺へ。少し歩くが、今日はこの辺で引き上げることにした。
開封の繁華街の中心「鼓楼」の夜景 周囲では、連夜の夜市を開催
4月30日、開封滞在二日目。この地は大連市と比べ暖かい。朝の中は霞がかかっていたが、午後は晴れ。どこまで行っても1回1元の路線バスで、再度「鼓楼」へ。ここから歩行者専用のモールを歩き南方へ。沿道はファッション・ブティックや靴の店が並ぶ。日本の若者向きの繁華街の様相。横文字の店が並ぶ。一旦大通りに出て直ぐの所に、大相国寺があった。拝観料は35元だが、60歳以上は半額。ここでもパスポートが役に立つ。南北に細長い境内には、参道がまたぐ池があったり、五百羅漢を納める八角堂があったり、黄色い僧服のお坊さんがいたりと、いかにもお寺の雰囲気。しかし仏像はどれも金ぴかで興ざめ。一番奥の大雄賓殿の左側に「大師堂」があった。空海=弘法大師縁の小堂で、前には空海像が建っていた。紀元804年から06年まで、空海は遣唐使として長安に上ったが、途中、開封のこの寺に立ち寄った。その縁で、愛媛県日中友好協会による像の寄贈があったと言う。さらに境内の脇の方には、同じ禅寺で京都の名刹でもある相国寺との友好記念碑が建っていた。同様の碑が、京都の相国寺境内にもあると、相国寺のサイトに言及がある。何でも同名のよしみで、京都相国寺の代表団が80年代に開封を訪ねると、寺は荒れ果て住職も不在だったとか。そこで改めて日本の僧を派遣。中国仏教会の協力も得て、95年には漸くこの寺に住職を迎えることができたそうだ。
大相国寺の境内 無料で使えるWifiも設備していた
次に向かったのは、北宋時代の宮殿跡に造られた龍亭公園。宋都御街と呼ぶかつての都大路の先に、東西に広く楊家湖と潘家湖があり、その中に堤が築かれて真っ直ぐ北に伸びている。ここも60歳以上は半額。湖を抜け出た所に、高く龍亭が聳えている。この石造の建物を上がると視野が開け、周囲を一望できた。時代が下って清の時代に、宋都宮殿の遺跡跡に造られたものだそうだ。それにしても、黄河の南岸に位置するこの地は、どこまでも中原(ちゅうげん)の平野が広がり、山らしい山が見当たらない。そのため、黄河が氾濫すると洪水を生じ、開封には北宋時代の建物がほとんど残っていないと言う。眼下には楊家湖と潘家湖の大きな湖水が龍亭を囲むが、宋の時代ここは湖でなく宮殿に付属する建物が立ち並んでいたらしい。ここで見た当時の模型には、何も水辺らしいものが復元されていない。
快晴の下、日向を歩いて来た者に、龍亭の高台は風が吹き肌に心地よかった。よく見ると、中に安置されている像に拝礼しないよう張り紙がされている。ここがいかにも現代中国らしい。中国共産党は、過去の皇帝を神格化するような施設には制限を設けているのだ。先来た堤を戻り、龍亭を後にした。
龍亭公園の東側に広がる潘家湖 写真はその中の島
歩き疲れ暑さにやられ、この後駅で明日の列車の切符を購入しそのままホテルに戻った。夕刻、食事のために外出し、鼓楼辺りまで出かける。結局、ケンタッキー・フライド・チキン(肯徳基)の店に入り、予想外に辛いチキンを食べて夕食とした。この頃、食についてはなかなか慣れぬものがあったので、予想と違う味にはがっかりした。人口が500万を越える開封市には未だ地鉄などのネットワークがない。公共交通はバス頼みだ。夕刻ともなるとそれが渋滞で遅延する。さらに気づいたことだが、終バスがとても早い。午後8時半頃、ホテルに帰るためバス停で待ったが来ず、タクシーで帰るはめになった。
5月1日(水)、開封最後の日、午前中は市街地北東部の2つのスポットに出かけた。一つは「文化大革命(文革)」の波乱の歴史に翻弄された劉少奇氏の終焉の地、『劉少奇在開封陳列館』。丁度この春、テレビでは劉少奇の生涯をシリーズとして放映していた。これを中国語の教材のつもりで見ていた私には、何かと身近に感じられる場所となった。テレビは新中国誕生で終わっているが、その後劉氏は毛沢東を継いで国家主席になり、新中国の立て直しに奔走した。しかし、60年代に始まった「文革」では革命を修正する者として糾弾され、紅衛兵のつるし上げを受け、党からも除名を宣告され、自宅軟禁とされた。69年秋、病状の悪化した劉氏を文革派は歴史の舞台からひっそりと退場させようとした。劉氏と縁の薄かったここ開封市が選ばれ、秘かに移送され、粗末なベッドに縛られて身動きもろくにできぬまま、やがて息を引き取った。その死を愛妻で知られる王光美も知らされず、劉家の人々の苦難はその後も続いた。
『陳列館』は解放路と言う大通りに面した元は銀行だったという建物で、ここでも入場の際「身分証」を示す必要があった。その立派な建物の奥に中庭があり、さらにその奥の地味な建物の1階隅が臨終の部屋ということで、当時の医療用ベッドなどがそのままになっていた。毛沢東の死後、劉氏と同じく文革の悲哀をなめた鄧小平が復活すると、1980年、鄧は漸く劉氏の除名を解き、盛大な追悼式を行ったという。夫人の王光美は、劉氏の遺言通り海軍艦艇に乗り海上で夫の遺骨を散骨したと言う。この時、開封市民は遺骨を載せ花で飾ったバスを鄭州飛行場まで走らせ、沿道でそれを見送った。展示では、そうした写真なども見ることができた。
正式名称、開宝寺塔と呼ぶ鉄塔。その表面は確かにタイルで覆われていた。
解放路をさらに北へ行くと、この先は城外という所の手前に鉄塔公園の入り口があった。しかし、肝心の塔ははるか東の方に位置しており、入り口からは見えない。緑の園内を東へと進み、漸く前方に高さ55m、13層を持つ八角形の塔が見えて来た。宋代に建立され、今も現存する貴重な建造物だ。まさか鉄で造られたはずもなく、近づいてみると表面が粘土を焼いたタイルで出来ていた。この表面が金属のように光るので「鉄塔」と呼ばれているそうだ。背後には大きな池が配置され、なかなか美しい公園となっていた。この日は晴れて暑くなり、公園の緑も眩しい位だった。
午後は鄭州まで鉄道での移動となった。この日は、労働節の連休の初日で、案の定、午後の開封駅の改札口はごった返していた。列車はほぼ予定通り到着したが、それまでホームには上げてもらえず、地下道でじっと待った。乗った列車も満員で、普通車(硬座)の指定席はすでに若い青年が座っていた。そこで乗車券を見せ、譲ってもらう。列車はゆっくりと走り出したが、速度はそのままで、中原の畑地の中を西方へとゆっくりと進む。エアコンの効いた車内は静かで、列車はすべるように鄭州を目指した。
3時近くに漸く鄭州に到着。河南省の省都でもある鄭州は、開封の田舎臭さが全く感じられない。開封には少なかった超高層のビルが、駅前や大通り沿いに展開する。否、列車で見て来た郊外の住宅団地も超高層が林立していた。街路も大連のように美しい。
鄭州駅東の回教区にある商店街 回族の店が並ぶ 店の看板の上にアラビア文字が
明日の朝に空港に行くため、地鉄の黄河路駅の近くに宿を取っていたが、駅からは大分ある。途中まで徒歩でと思い、駅前の繁華街を抜けると、何となく雰囲気の異なる街となった。店の構えに大きな違いはないが、看板はアラビア文字なのか、判読不能の文字が並ぶ。店番の男性の頭には白い丸帽が。ここは回族の人々が住む一画だった。途中、公民館の様な施設も見受けたが、そこにも回族区という名前があった。かなり大きな地区で、擁する人口も少なくないのではと思った。迷いながら地鉄二駅分も歩いてしまった。そこで駅を見つけ、黄河路駅まで乗車。今夜の宿は超高層のシティー・ホテル然とした大河錦江飯店。その19階に部屋をとった。時間があれば見学したかった考古資料豊富な「河南博物院」は次回にお預け。最終日の今夜は、少し奮発してディナーを食べることに。繁華街を歩き疲れたところで入った洋食屋さんは、河南伊族が経営する店で、50元近い値のビフテキを注文。伊族は昼間に見た回教徒の一集団で、牛肉の料理が得意らしい。言うまでもなく豚肉はダメ。サラダ付きのセットは、日本の洋食屋と変わらぬ中身だった。
5月2日(木)、鄭州では残念だが観光スポットなどには寄ることもなく、朝、地(下)鉄で新鄭州空港へと向かい、午前の東海航空の便で大連への帰路についた。往き来た西部航空便と違い、乗客マナーは可もなく不可もなく、昼頃の便なのでどうなのかと思ったが、ちゃんとハンバーガーの軽食が用意されていた。往きと違って、窓側に席を取って眼下を眺めると、機は黄河に沿って東へと進んで行く。河は黄色に濁り、それが潤す大地にも、黄色い斑点が目立っていた。
河南省の東端で、黄河は画面の右(北東方向)に向きを変えて流れる
これまで2か月、毎日学習に勤しむ日々だったが、ここで中休みとして旅に出たのは良い経験だった。午後の早い中に、大学の寄宿舎に戻って来た。
④2019年正月、国内の旅『常磐路往復と岩手の旅』
とうとう平成30年も終わり、新年正月は完全にフリーになったこともあり、正月気分も抜けた月末に、以前も紹介した「大人の休日パス」を使って旅に出た。30年度最後のパス通用期間は、1月17日から29日までと設定されていた。その期間の四日間を使ってJR東日本管内なら自由に旅することができる。さて、慎ましい年金生活者がこれを使って旅をするからには、今回も節約術が欠かせない。実は、昨年の初夏も使った手なのだが、1日目は日帰りして宿泊費を浮かすことにした。今回はどこへ行ったのか。同じ関東地方なのに、これまで行ったことがほとんどなかった茨城に出かけた。と言っても広い茨城でどこへ行くか。今回は県北の五浦(いづら)に出かけた。この地名が読めたなら、何しに行ったかも想像できるかもしれない。五浦は明治の文人、岡倉天心がその海景を気に入り、東京を離れて移り住んだ所だ。今でも太平洋の波が打ち付ける磯浜を見下ろす崖の上に、『天心邸』が健在だ。JRの最寄り駅は大津港駅。その手前磯原まで、22日の火曜午前10時に上野から特急ひたち7号に乗車。乗り換えて昼過ぎに大津港に着いた。天気は終日晴天が続いたが、行きの車窓で記憶に残ったのは、土浦を出た辺りで水を張った農地が続き、レンコンを収穫している光景。そして水戸に近づいた頃に見た千波湖の風景。
五浦の天心邸
大津港駅から海岸までは数kmはある。そこで路線バスを探したところ、火金のみ運行とあり、午後1時過ぎに駅から発車となっていた。駅前の食堂に入って、ラーメンをすする。時間が時間だけに、小さな食堂は満員。初老の夫婦が店を切り盛りしていて、大変そうだった。食べ終わった頃にバスが来て、運転手に天心の六角堂の最寄りで降ろしてと頼む。その間、15分ほど。バスは北茨城市のコミュニティーバスで、乗客は病院帰りのおばちゃんたち。運転手とも顔なじみで、乗客の忘れ物をめぐってのやり取りが、面白かった。バス停は六角堂入口で下車。その運転手に聞いた道順で5分ほどでたどり着く。天心邸は今、茨城大学の美術文化研究所の所有となっている。木立の中にアプローチがあるので、すぐに海は見えなかったが、潮騒の音が聞こえて来た。入り口で入館券を買い中に入ってすぐ左に、天心邸を紹介する展示館があった。49歳(50歳とかも) で惜しくも逝去した天心だが、その前数年間はアメリカのボストン美術館での美術部長の仕事とこの五浦での滞在を半年サイクルで行き来していたそう。ボストンへは横浜からシアトルまで船。そこから大陸横断鉄道だったそう。釣り好きで、自ら設計した和船で眼前の海に漕ぎ出していた。展示館を出て海側へと進むと、その天心邸があり広い芝の庭を挟んで、外側には磯浜の断崖が迫る風光明媚な場所だった。邸は木造平屋建て。純和風の趣だった。庭の向こうで断崖が切れ落ちているが、下へ降りる道があり、これも天心設計の『六角堂』が見えて来た。若き日、天心はボストン美術館とも関係するA=フェノロサの助手として奈良の法隆寺を訪ね、「見てはならぬ」という僧の戒めに反して『夢殿』を開け木造観音菩薩像を発見しているが、その経験を大事として語っていた。その『夢殿』は八角形。こちらは六角形の木造家屋だが、おそらく夢殿での世紀の発見に立ち会わなければ、こちらのお堂も実現していなかったのではと思う。中は炉が切ってあり、天心がこだわった茶道の茶室空間をイメージしている。波が洗う六角堂前の海は、とても清冽で底まで透き通って見ることができた。離れて石灯篭を備えた岩礁が立地する。六角堂の建物は目新しいが、それもそのはず、2011年の大震災の津波で水没し、流失してしまった。しかし、わずか一年で再建。各地の篤志家からの寄付寄贈が大きかったと言う。
天心邸の庭から見下ろす「六角堂」
1903年、常磐路の海岸を訪れた天心は、五浦を紹介され、この地に別荘を購入。1905年には、東京にあった自らが主宰する日本美術院を五浦に移し工房を建てた。連れて来たのは、画家の横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山。そして別荘も新築した。それが『天心邸』。芝生の庭はボストンから洋芝の種を持ち帰りそれが根付いたそう。
さて、次に目ざしたのは茨城県天心記念五浦美術館。徒歩で数分の所。こちらも海に面した高台の広々とした所にあり、館内には天心記念室が備わる。49歳で亡くなった天心の死因は糖尿病。天心が愛したもう一つの六角堂がある新潟の赤倉温泉に滞在中、帰らぬ人となったそう。その出自は、幕末日本で外国人と接する稀有な場所としての横浜で育ち、貿易商だった父の命で漢字を読む前に英語を話すまでになったというこれも稀な経験を経て、絶えず西洋文明に接しながらも東洋の価値を意識していた人生だった。日本美術の価値を改めて問い直した人とでも言えるのか・・・。館の外のテラスに立てば、北はいわきから南は先ほどの五浦の磯浜までが見通せる、景勝地に立つ。
茨城県天心記念五浦美術館
特別展は、小林恒岳という茨城が生んだ郷土の画家。それも筑波山に近い土浦の出で、天心が校長を務めた芸大に後になってから学んだ昭和の画家。若い頃抽象に走ったが、戦後帰郷した茨城の豊かな自然を前に再び具象に戻り、土浦近辺の水辺の風景などを描いた画家だそうだ。小林画伯が戦後の経済成長で霞ケ浦の汚染を目の当たりにした時、意識したのは環境問題だったそうで、蓮の花が毒気に満ちた池の中で耐えているモチーフなど、なかなか独特なタッチに興味を覚えた。色使いも綺麗で、自分の好みだった。
帰りはバスがないので歩き。下り電車の時刻に合わせるため、時に歩道を走る。そしてまた歩いた。いわき行きの電車に間に合い、この日のおまけとして湯本駅下車で近くの『さはこの湯』に浸かった。浴室は内湯のみで狭かったが、湯船は八角形で源泉60度の湯が少し冷めた状態で溢れていた。公設で料金が230円と格安。それも含めて、入りに来て得した気分。帰りは初詣での賑わいが過ぎて静かな温泉神社がライトアップされており、石段を上った。街の明かりをそこから見下ろす。階段を降りたところに、湯がその頂点から湧く碑があるのに気づいた。湯気がもうもうと立つ。本格的な温泉地なのだろうが、こんな平野の片隅近くに火山があるわけでもない地に、湯が沸いているのも興味深い。
湯本温泉 鶴の足湯広場
帰りは特急ひたち26号に乗車して家路を急いだ。
1月23日(水)。この日から岩手へと旅立った。目的地は雫石スキー場。なぜ雫石かと言うと、粉雪に出会える確率が高いこと。そしてスキー場と盛岡駅とにシャトルバスが用意されていたことで決めた。しかし、ここに向かう前に、愛用のスキー一式を山から持って行くことに。現代人はそんなことはしないが、自分の感覚ではそれらを持って行く大変さも旅のうちと思っての行動。8時前の特急あずさ3号で信州冨士見へ。しかしそこからが一工夫必要だった。いつもの駐車場まで行きは上りとはいえ空身なので余裕だが、山小舎からスキーを担ぎ出し駐車場まで来て、ここから15分近く駅まで引きずるのは容易でない。そこで、直接車で富士見の駅まで行き、立ち寄ったことのある観光案内所の人に無理を言って預かってもらい、車を駐車場に置いて再び空身で歩いて駅へ戻った。功木(くぬぎ)さんと名乗る案内所の女性は快諾してくれ、そこでスキー一式を受け取ることができた。そこから12時39分発特急あずさ16号で戻り新宿へ。快速電車に乗り換え、東京駅15時20分発のはやぶさ27号函館北斗駅行に乗り継いだ。快速電車の遅延で、ヒヤッとした。しかし、乗ってしまえば17時半過ぎには盛岡に着いてしまう。東北新幹線は本当に速い。
雪を薄っすらとかぶった盛岡城の石垣
この日は、盛岡泊まりで、スキー場へのバス発着場がある西口のビジネスホテルをとった。テレビで天気予報を確認すると、明日の雫石を含む盛岡地域の天候は「吹雪」だと言う。NHK盛岡のローカルニュースの一番ベテランに見えるお天気キャスターに言われると、予定の変更を考えることになった。結局スキー場は明日の夕刻に着くようにして、この日は吹雪のない沿岸部に行くことにした。夕食のため駅東口に出て北上川を渡り、ファミレスで食事。雪道を歩いて、盛岡城界隈まで散歩した。何本かの堀と中津川の流れ。盛岡が思いのほか水の都であることを知る。
明けて24日、木曜日。沿岸部へは山田線で宮古へと行くのが近いだろうが、この手は何故か使えない。山田線の宮古行きは何と11時までない。一日に走る列車は、わずか6本。結局これは諦め、8時39分発の「快速はまゆり」で釜石へと向かう。途中、花巻・遠野を経て2時間で釜石へ到着。この列車に乗った時、7年前に行った被災地のうち、市の北部、大槌町と向かい合う鵜住居(うのすまい)へ行こうと決めた。鵜住居は、震災後に最初に入った被災地で強烈な印象を受けていた。今年は、この地区にとって復興元年と言っても良いイベントが続く。来る3月には北の宮古へと通じる山田線が三陸鉄道として復活する。さらに、ラグビーの黄金時代を築いた『新日鉄釜石』と縁のあるこの地で、ワールドカップの何試合かが行われ、その新設スタジアムが「復興スタジアム」として開場する。駅からのバスが暫く来ないので、港の方向へ歩く。津波をかぶった商店街を行くと、「釜石市民ホール」の目新しい建物が目にとまった。沿岸部は晴れていたが、風だけは強い一日だったので、ロビーでしばし休憩。その前からバスに乗って鵜住居をめざす。途中、入り江の奥の集落両石(りょういし)の海沿いを行く。明治三陸大津波の時も被災した集落だ。そして東日本大震災でも、堤防が破られかなりの被害が出た所だ。今回、この集落は狭い谷にあったこともあり、思い切って地面をかさ上げした。かつての漁村は高台の復興住宅の集落に化けていた。
そしてここを過ぎ、山道を通り抜けると、鵜住居の平地が広がって来た。その一番手前、新川原のバス停を降りる。国道45号沿いに海岸方向へ歩く。周囲は、区画整理が終わった後の道路だけが立派な街の様相。直ぐにドラッグストアの「薬王堂」の店を認める。何だかこの三陸の地に帰って来た気分になった。このドラッグストアのチェーンは岩手県が本拠地で、遠野でも、釜石でもそして大槌でも見かける。首都圏に住む者にはなじみがない分、被災地に赴いた時を思い出させる店だ。それを過ぎ、行く手の左側の丘に、鵜住居小と釜石東中、そして幼稚園が見えて来た。山を削ってできた施設は、2017年に完成。地区の平地に突き出たような丘上にあり、誰が見てもここが新しい避難指定地であることは明らかだった。地区の教育施設を集めたコンプレックスは何もかも立派で、復興は「箱もの」を造ることと見えた。その反対側に開業間近の三陸鉄道「鵜住居」駅の建物が見えた。しかしここは未だ建設中。その隣に一足早くオープンした平屋建ての市の施設「生活応援センター」があり、風も強いので中に入ってみた。
地域の新しい避難場所となった小中と幼稚園のある丘 階段だけでなく緩いスロープもある
センター内で応対してくれたのは、市職員の川崎さんだった。この施設が平屋で、津波を被る高さなので、大丈夫かという話になった。海岸に新たに造られた防潮堤を越えても、この辺りは1mの浸水で済むようになっている。もちろん、学校が集まる丘に登って避難することも決まっているが、との返事。そこで震災時、鵜住居で100人以上の犠牲者が出た地域防災センターの話になった。防災センターは元々津波避難の指定地ではなく、指定されていたのは山側の神社や寺だった。センターは、地域のお年寄りが防災訓練の際集合する場所として使われていた。あの日、北側の海からやって来た津波は、平地に立つ防災センターの2階天井近くまでを襲ったため、そこに避難していた住民は大半が犠牲となった。中には行政がここに避難してと放送していたとの証言もあった。川崎さんの話だと、その跡地は目の前に見える築山だという。窓越しに、重機が入って工事中のそのマウンドが見えた。丁度、鵜住居駅の前だ。市はここを整備して、「鎮魂の丘」として後世に伝える予定なのだそうだ。鵜住居は集落として大変な犠牲者が出た場所なのだ。
鵜住居駅は3月の開通を前に駅舎を建設中
生活応援センターを出て、そのマウンドを見て、北側へ(より海側へ)向かう。そして三陸鉄道の新しい踏切を越えると、眼前にこれも真新しい競技場の姿が見えた。これがラグビー・WCの開かれる「復興スタジアム」だった。門や塀を持たぬオープンな競技場は芝生のフィールドを挟んで向こう側に屋根付きのメイン観覧席が用意されていた。フィールドの芝の黄緑が美しかった。実はこの新設スタジアムが「復興」と名付けられたのには訳がある。震災の年8月、ボランティア専用のバスでこの地の奥にある根浜集落に行ったことがある。この地に見たのは、あの丘に移転した釜石東中と鵜住居小学校の廃墟だった。ことに中学校の建物には、その3階?に軽自動車が上がったまま窓に引っかかっていて、そのまま津波の恐ろしさを伝えていた。その場所に「復興スタジアム」は造られることになったのだ。防災センターの悲劇とは対照的に、ここの小中の生徒たちは日頃の訓練通り行動し、津波から内陸深く難を逃れ、登校していた全員が無事だったという。それを「釜石の奇跡」と呼ぶこともあるそうだ。
鵜住居復興スタジアム 今秋、ラグビーのワールドカップがここでも開催予定
こうして震災から7年が経って、インフラと箱モノは順調に復興して来ている。しかし、住宅の再建は途上で、鵜住居の区画は多くがまだ更地のままだ。先ほどの「応援センター」の川崎さんの話だと、小中の生徒の充足率はまだ半分ほどで、遅れているとのこと。被災した時に山側の別の地区に家を建てて転居した人に帰って来いとは言えないとも。ただし、元々平地の少ない釜石市で、しかも山一つ越えれば市の中心になるので、住宅地としての需要が元々あったこの地区に人が集まるのは時間はかかるかもしれないが、十分可能なのではと語っていた。なるほどと思った。
14時18分発の快速はまゆりで盛岡に戻る。スキー場と一体の雫石プリンスホテルまでのシャトルバスは17時半発。1時間近くをTully’sで過ごした。ちなみに、スキー板と靴は、盛岡駅に四つしかないスキーロッカーに預けておいた。バスに乗ると、幼女を連れた母親と、この人何人?と白髪で不思議な容貌の父親が席近くに一緒だった。ホテルに着くころ、この夫婦がドイツ語を話しているのに気づいた。この後、チェックインして夕食のビュッフェ会場で、またお会いする。夫妻はフレンドリーで、向こうから話しかけて来た。何でも夫はドイツ出身の父と日本人の母のハーフで、父の出身はミュンヘンだそう。私もドイツにはよく行ったりしていたと話すと、そうなんですかと微笑が漏れた。夜更けに、ホテル自慢の露天風呂に入る。プールのような角ばった湯船の外側に錦鯉?が泳ぐ大きな池。その向こう、ライトアップされた木々には雪がしんしんと積もっていた。
25日(金)、旅の最終日。夜更けまで降り続いた雪のおかげで好天に恵まれたゲレンデには、雪がたっぷり。しかし、夜通し圧雪車を走らせたせいか、どこもかしこも滑るには快適だがパウダースノーの有難みはない。それでも好天の他に何が良かったかと言うと、首都圏から遠く離れしかも平日なのでゲレンデには人が少ない。今まで、スキー場は混むものと思っていた身にはちょっと贅沢だった。昼食時にまたドイツ人の旦那さんと話したが、小さい娘は横浜にあるドイツ学園に通わせる予定だが、住まいは東横線の学芸大学前。それじゃ通学が大変ではと話したら、元々ドイツ系市民が目黒近辺には多いので、スクールバスが来る地区に住んでいるとのこと。初耳だった。
スキー場から岩手山を眺める
終日、ゲレンデからは雪にけぶったり晴れたりする岩手山の優美なドームが間近に見られた。それも午後3時半ともなれば、寒さがひたひたと迫って来た。ゴンドラで下山して午後4時半、ホテル前からのバスで盛岡駅へ。急ぎ土産を買い(かもめの玉子は美味!)、指定しておいた17時50分発のはやぶさ32号東京行きにうまくつないで、夜10時半位には我が家にたどり着いていた。スキー一式は今度山小舎に運ぶ予定。
③2018年前半、国内の旅『信州から四国高知を往復』
平成30年4月は前職を辞し、さて次に仕事を探すか曖昧なまま時が過ぎました。旅に行きたい気持ちがうずき、月末にはまだ訪れたことのない四国高知を目指し、ドライブ旅行へと出かけました。
さて、今回の旅行手段は、山に置いてあるセカンド・カー。十年物の軽自動車を使い、4月22日(日)から26日(木)まで、宿もその日に予約する形で気ままな旅へと出発しました。信州からだと、西日本は東京からより150km位は近くなります。軽で高速を行くのか?とお思いでしょうが、我がセカンド・カーはタービンが付いていて、高速でもスムーズに運転ができます。それでも旅の終わりには疲れましたが・・・。
4月22日、日曜朝。中央高速バスで、一路原村バス停へ向かう。10時過ぎに着き、早速車に。村の図書館のみ立ち寄り、その足で諏訪インター(IC)へ。そこから中央道を伊那・飯田、恵那山トンネルを越え、岐阜の中津川・多治見・小牧JCT。そこから名神へ入り、関ヶ原、多賀SA。遅い昼。栗東インターで降り、琵琶湖大橋を目指す。橋を渡った所で、西岸から橋を見上げる「道の駅」で休憩。
琵琶湖大橋を西岸の道の駅から見上げる
ここで「比叡平」へ登ることにする。比叡平は比叡山南側にある標高400m弱の台地。一応大津市域だが、京都と大津の間で山中に孤立する住宅街。何故ここに立ち寄ったのかと言うと、編集人も大の京都好きで、一度は京都に住んでみたいと憧れている。しかし、京都の夏は耐え難い。どこかに快適なところはないかと何年か前、地図を見ていたら比叡山中に広がるこの住宅街を見つけた。そこを実際に訪れた訳だ。大津市街からは琵琶湖西岸の国道161号の近江神宮辺りからわずか数分山道を登ると、急に平らになる。何軒かお店もあるが、ガーデニング・雑貨を売るgreenbalという店に立ち寄り、日曜午後で来客も多い中、オーナーの植木夫妻、特に空間デザイナーのマサコ夫人に話を聞く。暑さをしのげることは確かなよう。家の造りも関係するが、東西に開口を十分設けると、真夏でも熱帯夜はない位涼しいそうだ。逆に冬は雪も降るのではと聞くと、思ったほど降らないので、四輪駆動でなくても、冬用タイヤの車で普段通り暮らせる。バスで京都にも大津にも降りられるが、京都へは1時間に1本と便利。仕事を京都に持ち通う人も多いという。車での買い物は大津側にイオンなど多く便利とのこと。地区内には、コンビニも一軒あり。家を確保するなら、京都市街の地価の1/10なので同じ費用で10倍の広さを入手できるとのこと。名神高速京都東インターまで、大津側からのアプローチでわずか20分。今晩は淡路島まで行く予定と言ったら、1時間半で行けると言われた。意外に便利!大文字山までハイキングできたり、自然はもちろん豊か。 最後に造園家の威文氏にもお礼を言い、京都側へと降りることに。
比叡平「greenbal」 のホームページより
白川の谷に沿い縫うように走ると、文字通り左京区白川に出る。そこから南下。銀閣寺前で今出川通りを西へ。百万遍で京大の立て看板前を通る。そのまま嵐電の北野白梅町の駅前まで走る。西大通りを左へと再度南下。五条通りの角で、右に行き、それこそ京都のイオンによる。ここで淡路の宿をスマホで予約。目指すは、現在の淡路市(旧津名町)の東海岸にあるスポーツホテル。京都南から再び名神に乗り吹田JCTへ向かい、そこで中国道に入る。大阪モノレールを見上げながら、西走。やがて宝塚辺りから暗い夜道になり、山陽道の三木JCTまで来てそこから南下。垂水のインターを過ぎると、あっという間に明石海峡大橋へ。夜景だが大変良い眺め。光の円を描く淡路SAの大観覧車がやたら目立つ。橋を渡り、そのSAで最後の休憩。夜も9時半近くだったが、降りる津名一宮ICまでは十数分。これですんなり宿へと思ったら、途中のコンビニで道を聞いた後に車に戻ると、バッテリーが上がると言うよりつながらないトラブル。JAFを呼んで解決し、宿に到着した時には11時近くになり、最後の所で大変な一日となった。
泊まったホテル海月は、近くのグラウンドなどを利用するスポーツ団体の定宿らしい。インテリアはすっかり洋風。どう見ても若向きだった。この時期、宿を個人に提供するのは、合宿の合間の空き室を埋めたいらしい。
4月23日月曜朝、ビュッフェ形式の朝食に満足した後、一般道で洲本方面に南下。そこを過ぎて南あわじ市まで行く。南淡の福良港は、本四架橋の開通でフェリー港としての重要性を失ったが、うずしおクルーズで観光客を集めている。その港の一角に、古くは鎌倉時代にまで遡れる淡路人形浄瑠璃の、その定期上演施設『淡路人形座』があり寄ってみた。淡路は、江戸時代からその人形一座を各地に巡業させ、南信濃や関東にまで伝えて来た。11時過ぎからの演目は、「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」。「八百屋お七」を翻案したものだが、私には今一。人形を操る三人遣いの主遣いの男性の解説とその役者さんのような存在感の方が印象に残った。
淡路人形座のユニークな外観
さて、大鳴門橋を渡っていよいよ四国。鳴門の辺りは、島々が多く多島海の雰囲気。高速を早々と鳴門ICで降りる。そのまま国道11号を徳島市内へ。銀行に寄って現金を補う。高知へ向かうため吉野川を西へ。藍住ICの手前で、藍の字に魅かれて地元の藍住町歴史館・藍の館へ。入り口に当たる藍の博物館にはあまり興味が持てず、奥の江戸から明治にかけての豪商、奥村家の屋敷へ。乾燥に使った中庭を挟んで、寝床と呼ぶ藍を発酵させて藍玉を作った部屋に、ミニチュアの展示多数。なぜか床がでこぼこ。後で係員の男性から、そこがまさに発酵部屋だったからと伺った。奥村家はその後肥料を扱う全国企業「奥村商事」として関東中心に存続しているそうだ。
藍の館・歴史館内の奥村家の中庭 加工する行程が等身大の像で示されている。
藍住ICから高速で吉野川北岸を一路上流へ。山深くなりそのまま愛媛に入った所で、すぐに高知自動車道を南下。四国山系を横切る訳で、さらに山深く、トンネルも多数。そこを抜けると南国市から平野となる。高知の手前、南国ICを出て、国道32号を南下。風景は何となく南国模様。JR土讃線を越え、土佐電鉄の踏切を渡り、南国バイパスにぶつかった所で右折し、高知市内へ。明るい中に「はりまや橋」にも遠くない、菜園場町のホテルへチェックイン。夕飯は、徒歩ではりまや橋経由で高知駅前まで行き、近くのカレー屋で済ます。「はりまや橋」は何であんなに小さいのか?
4月24日(火)。この日は一日中雨模様。朝の段階から高知県南西部の足摺岬や土佐清水市まで行くのを諦め、高知市内の竜馬縁(ゆかり)の場所を訪ねた後、行き来た道を戻ることにした。まず向かったのは、桂浜。浦戸湾の入り口にあって太平洋の大海原に向かって開けた場所だ。浜には湾の東側から近づく。最後に浦戸大橋を渡って桂浜へ。そして丘上に新装なった高知県立坂本龍馬記念館に入館。開館はつい先週からとのことで、雨にも負けず大勢の団体客と一緒になる。ここに竜馬の生きた時代と彼の生涯だけでなく、同じ土佐出身のジョン万次郎と記念室もあり、こちらもじっくり見学。万次郎の出身地、土佐清水にまで行くにはここからまだ150km近くも車を走らせねばならない。今回は、高知の人が竜馬だけでなく、万次郎も顕彰していることを見て良しとした。ガラスエリアを大きくとった、すっかりモダンな記念館を出る時、竜馬が乗った土佐藩船『夕顔丸』の模型の展示に目が留まった。この模型そのものより、気になったのは、英国で製造と書かれてあるのに、船名が英語でなくオランダ語表記だったこと。この件で学芸員を呼んでもらったら、さきほどから私の近くで展示をみていた青年だった。彼に、もしかしてオランダで造られたのではと、オランダ語表記について話すと調べてみますという返事。誰かこの経緯が分かる人はおりませんか?
桂浜に立つ、竜馬の立像。その目は、目の前の太平洋の沖を見つめている?
館を後にして強風と大風の中を竜馬の銅像まで足を運ぶ。凛々しかった。そしてずぶ濡れになりながら階段を降り桂浜へ。美しく湾曲した砂浜は雨と風で一所にいられない状況。早くに引き上げた。でもよい所。今度は良い季節と好天に来たいもの。そのまま高知市内へ戻る。今日は竜馬づくし。竜馬が生まれ育った高知城の西側、上町の『竜馬の生まれた街記念館』を訪問。この地の裕福な商人の子に生まれた竜馬が幼い日々を想像するヒントに溢れる。中でも姉の乙女の存在。こりゃ男じゃと思う豪快な姉の存在も竜馬の人間形成には大きかったのではと想像。記念館から徒歩で生誕の地の碑も見てみたが、位置を示す以上のものではなかった。午後は、早々と行き来た道で愛媛をめざす。高知を出る前に入ったファミマ。これが店舗スペースの倍はありそうなイートインのコーナーがあり、びっくり。地価の安い地方では、こんな店づくりができるのかと驚いた。
再び四国山地を貫けて、瀬戸内海側へ。四国中央市から西条までの東予地方は初訪問。雨が降り続き、行動が制約されるが、石鎚山の麓である西条市に至り、この街に湧きだす「うちぬき」の幾つかを見学。
山に降った雨水が長い年月をかけて海岸部まで伏流し、この地で自噴井となっている。その箇所2000近く、湧出量90,000㎥/日という大変な規模なのだそう。市中心部の西側に北流する観音水沿いをうちぬきを求めて歩く。その水が注ぐ西条陣屋の堀割も流水のせいで濁りが少ない。陣屋跡は県立西条高校の敷地となっている。それにしても西条市は裕福なのか、市の施設が立派。まず車を停めさせてもらった市役所の新庁舎が4年前の竣工だそうで、地元の県産材を内装に多用した豪華庁舎。太陽光電池や雨水の中水道利用もあり、まさにエコな施設でもある。そして何より気に入ったのは、観音水の緑地に設けられた西条図書館。大阪の石本建築事務所による2009年の作品だそう。人口10万人の地方都市に、こんな洒落た大型の公共図書館があることに驚く。三角屋根は、FLライト設計の自由学園明日館を思い起こさせた。屋根の下の三角窓と吹き抜けが心地よかった。観音水の下流側に隣接してある市総合福祉センターも、この三角屋根のモチーフで、その連続する景観が心地よかった。
西条市立西条図書館 ↑↑図書館北面 三角屋根は石鎚山をイメージ ↑図書館内吹き抜けラウンジ 外を眺める
この日の宿は、予てから一度は泊まりたかった宿泊チェーンの「旅籠屋」が隣接の新居浜市にあり、そちらに予約を入れた。アメリカのモーテルにそっくりで、部屋は広々。何より白い壁紙が部屋を明るくしている。アメリカのとは、清潔感としっかり感が上回っている。朝もパンだが、それなりの朝食つき。大変満足した。
4月25日水曜日。昨日の荒天が一転して晴れに。この日は、東へと香川県方面に戻る。左に海を見ながら国道11号を行く。香川県に入った所で、豊浜辺りから内陸へ。県道241号から国道377号を経て、琴平町を目指した。沿道は農村で、集落には「うどん」の看板がちらほら。午前の中にその琴平町に入ったが、修学旅行時訪れた金毘羅山には寄らず、隣接するまんのう町に向かう。雨の少ない讃岐には数多くの溜池があるという。その最古で最大のものが満濃池。農業用水を確保する貯水池と言ってよい。
↑↑満濃池 右にせき止め堤防 貯水の際残された島も ↑ 下流の先には、讃岐平野が遠望される
古く8世紀に国守により築造されたが、まもなく崩れ、次の9世紀に僧空海が唐で学んだ技術を用いて大池を築く。12世紀に決壊後、久しく放置されたが、江戸期に復活。さらに明治と昭和に大規模な改造があり、現在の大規模な「水瓶」が完成したのだという。下流では丸亀と善通寺の二市を含む3000haの耕地を潤す。この先人の知恵を初めて知ったのは、小学生の時、学校の図書館で借りた日本の県別地誌だったと思うが、強い印象を得ていた。この度、一度は見ておこうと寄った。貯水池によくある入り組んだ谷のひだが多く湖面となる地形なので、堤からは2kmも奥まで貯水池が伸びていた。
午後はそのまま香川の国道32号を高松市へ。市の中心を越え、屋島を左手に見ながら市内牟礼の国道11号沿いにある桜製作所に到着。ここには、アメリカの家具作家ジョージ・ナカシマの記念館があった※1。展示内容は、ナカシマの日米をまたにかけた生涯の足跡と彼の家具作品。中でも座り心地抜群のコノイド・チェアには、感動した。アメリカの作家の作品を日本でも作ることになったのが、ここ桜製作所だった。1964年にナカシマが初来日した時、彫刻家の流正之を通じてここ讃岐の家具職人を紹介され、彼らが讃岐民具連を結成。ナカシマの作品をこの地で、ここ桜製作所でつくることになった。ナカシマは繊細な技巧を追及する日本の職人に感動し、その後長女のミラと長男のケヴィンを日本に留学させた。ミラは早稲田大学理工学部で建築の学位を取り、米国ペンシルヴェニア州ニューホープの工房を今も守っているそうだ。ナカシマは、樹木のもつ潜在的な力を形に変えた人だ。82年には、樹齢7000年とも言われる縄文杉を見るため、製作所代表の永見眞一と屋久島を訪れている。
ナカシマ記念館は、今も稼働中の桜製作所の中にある。玄関左上にGeorge Nakashimaの署名が見える。
記念館を出て、近くの国道沿いのうどん屋で、遅い昼とした。例の蛇口がついている店だった。
さて、帰路につき国道11号線を東に。阿波街道とも呼ばれる瀬戸内海沿いの道を鳴門へ。この頃には、今夜の宿泊地を兵庫県宝塚市と決めていた。途中寄り道はしないが、高速は海峡をまたぐ所以外は乗らず、淡路島では西淡三原ICから北端の淡路SAまで、西岸沿いのサンセット街道をひた走る。雲も広がる中、小豆島方面に沈む夕日を浴びることになった。途中、地元の商店に寄る。特産の玉ねぎでなく、その店の人が朝採りした筍を土産として購入。明石海峡大橋をくぐってあの観覧車のある淡路SAに着いた頃には、夕闇が迫っており、薄暮の中を神戸側に渡る。往き来た中国道には行かず、垂水ICから神戸高速3号線を東へ市街地を西宮ICまで横断。ところが、ここから宝塚方面への地理は不案内で、道に迷いながら阪急今津線の宝塚南口にある、その名も宝塚ホテルにチェック・イン。1990年だったか、春に関西に旅行し、今津線界隈を歩いた時、このクラシックなホテルが目に留まった。今回はそこを宿泊地とした。その後、今津線の高架が完成し、ホテルも新館に囲まれるように、その一部に取り込まれた。大分、当時とイメージが違う。しかし、ネットで予約した空き室は、この旧館5階の一室だった。うまくクラシックホテルに泊まることができた。
宝塚南口駅前の宝塚ホテル。この写真左側にメイン・エントランスがある。頭上の旧館は赤瓦と三角屋根が特徴。
※1 ナカシマのペンシルヴェニアの工房に立ち寄ったのは、1991年の春だった。詳しくはこのウェブサイトの日 本の街、世界の地域にある28.ペンシルヴェニア東部を参照。
4月26日木曜日朝、宝塚ホテルを出て、近くのファミレスで朝食。今日は晴天が続きそう。その足で一晩車を預けた駐車場に向かう。宝塚市内から中国道の側道、国道176号を往き来た反対に吹田方面へ。京都へ向かう国道171号へと北上し、京都をめざす。しかし、トイレに寄りたくなり、それを探す形で高槻市内で東へそれる。なかなか肝心のコンビニに出会わず、四苦八苦しただけでなく、道の市街地を右往左往。淀川べりの土手を走ったり、農道と思しき道に迷い込んだりしたあげく、たいして距離も稼げずに171号に戻った。まだ高槻だ!それでも京都の久世橋を渡り、市内へ。帰路もワンポイントだけ京都に寄ろうと、市の北部鷹峯(たかがみね)へと西大路を北上。金閣寺前の欧米からの観光客が列をなすのを横目に、北大路に入りすぐに左折。そこからは市街地としては結構急な坂道となる。鷹峯地区の中心に、日蓮宗系の光悦寺が佇んでいた。境内は新緑の若葉に覆われ、陽の光に眩しく輝いていた。光悦寺は琳派の祖と言われる本阿弥光悦が、自身とその一門を引き連れて、江戸時代の初めにこの地に移住した際の自宅としたもので、死後に寺としたものだ。その意味で、立派な伽藍があるわけではなく、見学の中心は点在する茶室とその庭となる。静かな園内を歩くと、南面する谷間を挟んで向かいに鷹峯の三山が眺められた。なるほど、芸術家にふさわしく、この地は花鳥風月に親しむに十分な土地なのだろうと推察された。第一、土地は斜面が多く平坦でない。そこを上り下りする。東屋で一呼吸。光悦の創作は、茶器や書道が中心。画道は同時代の俵屋宗達に委ねたが、この地に工芸の拠点を置いて、活発に活動した。生垣まで芸術家らしいしつらえだと言われている。
茶室を取り囲む、いわゆる『光悦垣き』
受付のお坊さんに聞くと、この緑豊かな環境を守るため、参拝客の来場を控えめにしたい。そのため、ウエブサイトさえもたないで、運営しているとのこと。庭内の大石に彫られた米国人の名前、Charles Fleerなる人物。光悦の芸術を高く評価したコレクターで、米国ワシントンDCのフリーア・ギャラリーの名に残る人物だとか。そう首都ワシントンにも日本美術の拠点があることに、気が付いた。いつか行こう!
京都を出た車は名神の京都東から帰路についた。先ごろ開通したばかりの新名阪を選ぼうかと思ったが、事故渋滞が発生し名古屋市方面へは往き来た名神を進む。この日は諏訪IC経由で高速のパーキングへ向かい、そのまま夕方のバスで我が家へと帰宅の途に就いた。もちろん、疲れた。
②2017年後半、国内の旅『信州を経て新潟から日本海沿いを青森まで』
編集人は、JR東日本の『大人の休日倶楽部カード』を持っています。このカードで買える「大人の休日倶楽部パス」※1を使って、2年ぶり2回目のJR東日本管内の旅を、この9月に行いました。 9月9日と10日の土日を挟み有給をその前後にとり、この4日間有効のパスを使って忙しい旅をして来ました。接続を工夫して途中下車で時間をとったりしました。
※1休日倶楽部カードはJR料金がわずかに5%引きとなるカードで、編集人はあまり興味がありません。ところが、年3回鉄道の閑散期でしょうか半月位の範囲で休日倶楽部パスを購入・利用することができるのです。1万5千円で四日間全線乗り放題です。今回は通常の料金を足すと約4万円になります。このパスが安いのでしょうか。編集人には、JRの料金が高過ぎるように思います。
9月8日金曜、曇り日の朝、立川発7時21分の「スーパーあずさ」で中央本線を山梨県の小淵沢駅まで乗車。座席指定を怠ったために、自由席を石和温泉駅まで立って我慢。小淵沢駅では新装なった駅舎を見学もそこそこに、各駅停車に乗り換え二つ先の(信濃)富士見駅へ。9時10分、下車。先ずは駅裏の富士見図書館へ本を返却。その足で15分上り坂を上がり、そこに置いてあるマイ・セカンドカーで隣の原村にある製材所に向かう。訪問を予告してあったので、注文してあった木材は軽トラの上にロープで固定済み、代金を払い、この軽トラで同村にある山小舎(と私が呼んでいる)の建物に向かう。ここで荷を解き、次回の来訪まで小屋下の倉庫に入れて施錠する。軽トラで取って返し、行きとは反対の道を下り、製材所の主人にお礼を言い、富士見の駅へ向かう。
11時15分の下り特急あずさ6号に間に合う。この頃には天気はすっかり晴れ。12時頃に終着松本駅に着く。名古屋から来る特急ワイドビューしなの7号が数分遅れで到着。駅弁を買って乗り継ぐ。ここから先の篠ノ井線は初めての乗車区間。トンネルの多い鉄路だが、聖高原からの長いトンネルを抜けると眼下に千曲川の流れ。長野盆地を遠望。そして姨捨駅周辺はほんのりと色づいた棚田が広がっていた。14時前にここも駅ビルが新装なった長野駅に滑り込んだ。
ここで1時間半途中下車。限られた時間の中で選んだのは善光寺への参道を歩いてみること。寺自体は車で何度か来ていたが、駅からの参道は初めて。駅前通りを行った最初の角(末広町)を右折し、善光寺へと続く緩やかな上り坂「中央通り」へと入る。30度近くの暑さの中、沿道の店に立ち寄り冷やかす。江戸時代から続く老舗などがあり、興味深い。北野文芸座はミニ歌舞伎座の装い。不定期で落語などを上演。善光寺仁王門まで行き、そこから引き返す。すぐに和服姿の新郎新婦と出会う。写真を撮らせてもらい、思わず「おめでとうございます」。「ありがとうございます」と返された。藤屋旅館前は素通り。大門交差点に面するパティオ大門は伝統的な建物を保存・再生した一画。ナイス・プレイス!中でも奥へと入ったパティオ(中庭)が楽しかった。そして松葉屋家具店。無垢の木で作るテーブルなど注文家具が、得意な分野だそう。創業1833年!
↓善光寺で挙式?の新郎新婦 ↓↓パティオ大門の中庭
さて、午後2時27分発あさま620号東京行きで高崎へ。途中駅停車で上田では上田城、佐久平では小海線の駅、軽井沢では浅間山などを一瞥。15分待って、高崎発15時31分の二階建て特急とき325号で一路新潟へ。長岡駅近辺の水田はいつ見ても美しい。新潟でも30分未満の待ち時間で17時17分発の特急いなほ3号で白新線を北上。新発田経由羽越線で村上駅へ。午後6時過ぎに到着。瀬波温泉へのバスを待つ間、駅前を散策。旅館扇屋が面白かった。ここもパティオと同様、大暖簾をくぐると中庭が広がる。木造中心のようだがデザインは大変モダン。通りに面してはカフェも併設。おかみさんの話だと、町の再生を目指して、東京の美大のスタッフも参加する形でデザインを考えたそう。ちなみに2013年には建物全体がグッドデザイン賞を受賞している。
すっかり暗くなった宵闇の街を路線バスで瀬波温泉入り口へ。蕎麦屋に寄った後、砂浜の海岸線に面する旅館大清に着く。夜も8時を回っていた。
9月9日土曜、一日中晴天が続く。朝食後、ホテル前の波静かな日本海の渚を歩く。8時半、村上市のコミュニティー・バスで駅近くまで。かつての城下町だった村上市は、旧市街に伝統的な街並みがある。しかし駅から遠く訪問は次回にとした。9時15分発の特急いなほ1号で鶴岡へ、1時間の乗車。車窓左に青い日本海。鶴岡で途中下車したものの、コンビニでコーヒーを飲むくらいしか時間がとれない。それでも山王日枝神社の芭蕉の句碑位は見学できた。「めずらしや山をいで羽の初なすび」。11時過ぎの普通列車で庄内のもう一つの都会、酒田に向かう。列車の中でドイツ語を話すカップルがいた。その他にも欧米からの外国人。酒田駅でカップルに聞くと、新潟方向に行くところ逆に来てしまったとのこと。どうすればという顔に返す言葉がなく、迫っていた山居(さんきょ)倉庫行きのバスに乗るため、その場を去る。山居倉庫は庄内米を貯蔵する大規模な連棟倉庫で、南西側には倉庫にそって見事な枝ぶりのケヤキが並ぶ。夏の高温を避けるために植えたそうだ。残念ながら、内部には入れず、一番奥の資料館にも気づかず、駅へと戻る。帰りのバスがないので歩いて戻るが、このために秋田行きの列車を逃す。次は2時間後の特急までないそう。外へ出ると、先ほどのカップルが風に当たっていた。聞くと予定していた金沢まで何とか行けることがわかったと言い、旅程を見せてくれる。これも北陸新幹線開通の効用か。二人はスイスのバーゼルから来たそうで、何と鶴岡で羽黒山に登って来たそう。外国人の特権とも言えるJRパス※2のホルダーで、金沢の先は大阪の友人宅へと向かうそう。うらやましいと話して笑った。再び彼らと別れ、駅近くの本間美術館へ。「大画面で楽しむ日本の美―屏風絵の世界」の展示を開催。酒田の豪商本間家は、江戸期に藩主酒井氏に金を融通するほどの資産家だったとか。お殿様から賜わったコレクションをもとに、美術館を運営しているそう。
14時41分発の特急いなほ5号で秋田へ。この列車も日本海沿岸を進む。この日の目的地は青森県の十二湖駅。ローカルな五能線の駅なので、たどり着くのが大変。秋田では能代行きの臨時列車が待っていたので、スムーズな乗り換え。その能代、バスケットボールの街として有名で(あの能代工業高がある!)、駅のホームにはバスケのゴールまである位。この日は「能代フェス」の晩だった。駅を降りるとすぐの広い県道沿いで竿燈や横浜中華街の龍踊(じゃおどり)など、パレードが始まっていた。沿道は大変な人出。一巡して18時15分発の普通列車に飛び乗る。ローカル列車で時間がかかるが、ようやく青森県へと入った。19時40分頃、十二湖駅着。迎えの車に乗り込み線路に沿って少し先の森山荘に入る。夜に雷雨。雨模様。
酒田の山居倉庫/特急いなほから遊佐の田んぼと鳥海山/十二湖の一つ金山湖と大崩れ山 /能代フェスの山車
※2JRパスは正式名称、JAPAN RAIL PASS。日本に居住していない人がつまり外国在住者が、その地で予め購入し日本到着時に発券してもらうと、例えば7日間であれば大人普通3万円弱でJR全線が新幹線を含み乗り放題となる。14日間だと4万6千円、21日間だと6万円弱で購入できる。編集人が外国から帰国の時、外国人旅行者がJRのカウンターで発券してもらうのを見てうらやましく思ったことがある。
9月10日日曜、朝は曇りで昼からは快晴に。起床後すぐに森山荘の風呂に入る。海沿いの建物は、目の前が波洗う海岸。風が強く未だ荒天の模様。朝食後、やはり車で駅へ。ここで十二湖行きのバスを同宿の望月夫妻と待つ。バスはすぐに海岸を離れ、4㎞くらい内陸へゆるい坂を上る。奥十二湖の駐車場が終点。ここからは自分の足で幾つも湖を探訪しようとする。直ぐの鶏頭場の池はそこに突き出た岬に行くことができ、湖面の三方を見渡すことができる。案内板が地味で観光客の多くが入ってこない。おかげで神秘的な景色を独り占めにできる時間もあった。次が一つ奥の青池。湖水の青さとくぼ地の池に日の光が縦に注ぐので、不思議な印象を与える。最も訪れる人が多い所だそうだ。そこからは、踏みづらい登山道を金山の池へ。観光客を見かけなくなる。それだけ深いということか。整備された湖畔の東屋からは東の「崩れ山」の頂を望めた。ログハウスのリフレッシュ村を経て、脇壺の池、落口の池、清冽な水が流れる。この辺りまで来て、十二湖の景色が志賀高原の湖沼群に似るのに気づく。さしずめ十二湖は「平地のあるいは海に近い志賀高原」といった印象だ。その後、中の池を過ぎるとビジター・センターがあり十二湖が火山の溶岩などで沢が寸断されてできたことなどを知る。さらに越口の池、王池東湖と進みわき道に入って日暮の池をかすめる。登山道を日本キャニオンと名付けられた山腹が崩落し白い砂礫がむき出しになった景観を眺められる展望台へと向かう。緑の山容がそこだけ白いのは、確かに印象には残る。しかし、展望台からの距離が遠く今一つ迫力不足。そこから本道へと降りたところに八景の池。一番海岸に近い所だ。この池も清澄な水を湛える。随分池を回った。朝のバスをつかまえ駅へ。
12時13分の各駅停車で深浦の駅へ。待ち時間に目の前の海岸に出てみた。晴天の眩しい光の下、海の青さが際立っていた。この駅で全車指定のリゾートしらかみ3号弘前行きを待つ。実は深浦から途中の鯵ヶ沢までしかその指定券を購入できなかった。本数の少ない五能線で先へ進めないのは大問題だ。乗ってみたリゾートしらかみは、評判通り快適で些か豪華なインテリアで、ご満悦。そして車掌の登場。聞いてみると、予備の座席が同じ車両に用意されていて一人なら対応できるとのこと。これで鯵ヶ沢以遠も弘前の手前の川部まで乗り続けることができた。その間、五所川原までの間に津軽三味線の演奏まであってJRのおもてなしが凝っていた。
今回は弘前訪問はあきらめ、明日の八甲田行きのために青森に急ぐ。16時21分、普通列車で青森着。駅前のビジネスホテル「ルートイン」に投宿。夕飯は和食に飽きたのでガストでハンバーグ。泊まったルートインは浴場付きで居心地が良かった。8階の部屋の窓を開けると、港からの海風が心地よかった。
9月11日月曜、朝はまだ晴れていたが、ゆっくりと下り坂。その後は薄曇りの天気だった。この日は駅前からのJRバスで八甲田を往復。7時50分、バスに乗り込むと相席はアジア系の女性で、聞くと台湾で銀行員をしている女性だった。言葉があまり通じずどうも会話がはずまない。十和田湖まで行くというこの人に、こちらは八甲田山のロープウェイに登ると行って、その駅でお別れ。薄曇りとは言え、その手前萱野茶屋辺りから八甲田の峰々がくっきりと見え、登山には悪くない日和だった。標高670mの山麓駅から1320mの山頂公園駅まで10分で登る。乗客の半分がアメリカからの団体客。この団体とはこの先、抜かれたり抜いたりすることになった。多くの観光客は、山頂公園駅の展望台で陸奥湾まで見通せる絶景を眺め、その後30分から1時間の散策コースをめぐって戻る。当方はそこから目的地の酸ヶ湯(すかゆ)温泉へと長いトレッキング・コースをたどる。ところで、最初の散策コースでも田茂萢(たもやち)岳の湿原から、眼前に北八甲田の赤倉・井戸・大岳の三山が望めた。迂回して田茂萢岳にも上ったが、展望もなくがっかりした。
↓八甲田の上毛無岱湿原 ↓↓中毛無岱湿原から下毛無岱を見下ろす
さて、酸ヶ湯への道へと入る。先ほどの団体さんと会う。この団体には通訳兼ガイドが付いているので、酸ヶ湯への道はこの団体について行けば安心として後ろにつく。しかし、中にはゆっくりな人もいて、ガイドはお先にと促す。途中迷うところはないと聞いて安心して先へ。その先が素晴らしかった。三段の毛無岱(けなしたい)湿原を降りる。長さ1㎞以上もの上中の湿原を、木道をたどって歩を進める。その終わりの方に広い木のテラスがあり、しばし休憩。辺りには少し秋色がかった灌木などもあり、素晴らしい。欲を言えば、ななかまどの赤色が燃える秋たけなわに来て見たかったところだ。
団体のガイドも急ぎたい人にはここまで行くことを許したのか、元気な先行組がこのテラスで私に追いついた。どこからか?と聞くと、フィラデルフィアの近くからと中年の男性。中年の夫妻はオハイオのシンシナティ―から。そしてカリフォルニアのロサンゼルスからの男性も。ガイドが世話する後続のメンバーもようやく追いついた。ガイドの日本人女性に聞くと東京からの団体だという。それがオプショナル・ツアーなのか否かまでは聞き逃した。お先にと挨拶し、今度は下毛無岱湿原への階段を降りる。山岳雑誌などにもよく取り上げられる、その湿原に池沼が点在する絵のような風景が眼下に見渡せた。そことも別れると、所々ぬかるみの歩きづらい登山道が続く。城ヶ倉温泉への分岐を過ぎると酸ヶ湯旅館の大規模な棟々が視野に入った。約2時間半の行程だった。
今回の旅で一つ後悔したこと。いつもの軽登山靴をはかずスニーカーで来たこと。十二湖もここでも難儀した。しかし、善光寺参道を登山靴で歩けただろうか。
酸ヶ湯は千人風呂と呼ばれる木造りの混浴風呂があるので有名だ。ここで日帰り入浴を楽しむ。と行きたいところだが、どうも混浴は時代に会わない様子。中にはベイジング・スーツを着ている女性もいたが、その方が当方も楽な気がした。それでも冷温両方の風呂に繰り返しつかり、登山(下山?)の疲れはとれた。お湯を肩から流した時、少し口に含んだ。とても酸っぱい。酸ヶ湯の名の由来が分かった。帰りのバスが来るまで、宿泊の自炊棟を覗く。これが新造でなかなか快適な施設で驚いた。
3時前のバスで1時間以上かけて青森駅まで戻る。駅前の新道通りを夕べに続いて散策。さくらの百貨店のデパ地下で、りんごを土産に買う。本屋(成田屋本店)で郷土資料を探すが、望みの物が見つからず。そうこうしていると、帰りの新幹線が気になりだし、青森駅から新青森に移動。そこでさらに土産を買って、18時36分発のハヤブサ36号で一路大宮へ。武蔵野線経由で帰宅した。
①2017年前半、海外の旅『米国中西部への旅』
2017年3月、9日間ほど米国のイリノイ州及びミズーリ州に旅して来ました。
ミズーリ州の田舎の大学にいる長男に会うためでした。
3月18日土曜、成田空港からAA154便でシカゴに直行。11時間と少しでシカゴのオヘア空港に着。妻と娘が同行。この地の天候曇り。レンタカー(日産Rogue)を借り出し、すぐのマンハイム通りを北上。シカゴの北郊、プロスペクト・ハイツのモーテル6へ。今回も節約海外旅行。
夕食はその道を戻り、途中のタコベルでタコスを賞味。途中の踏切をそのまま通過するのも米国流。それに改めて気づく。
昔は6ドルで泊まることができた格安モーテルの”Motel6″。 前半のシカゴ滞在の宿となった。
3月19日日曜朝、天気晴れ。車で同じくシカゴ北郊のグレンヴュー市のコーナーストーン教会へ。N氏夫妻、その長男と再会※。昼は夫妻とともに、近くの中華レストランへ。盛りだくさんの食事をごちそうに。さらにシカゴ観光に電車で出かけるためN氏から駐車場の提供を受け、言葉に甘える。夫妻の家はエヴァストン市のCTA(シカゴ交通局) のNoyes street駅近くにあり、車を置いてこの駅から1時間かけてダウンタウンへ。レッドラインのLake駅下車で、徒歩でウィリスタワー。エレベーターを待つ間、シカゴの摩天楼の成立の展示に目をやる。ミース・ファンデルローエらの貢献を知る。地上410mからの眺め。青色のミシガン湖を見た。そこからシカゴ川を渡るとユニオン駅。例の階段を降りると大ホールが広がる※2。そのデコレーションが素晴らしい。SNSで兄(我が家の長男)とやりとりしている娘が、カリフォルニアから帰って来た兄がつい2時間前にこの駅を利用してミズーリに鉄道で帰ったことを教えてくれた。その長男とは二日後に会う。この日の夕食は昼の残りを電子レンジで加熱して間に合わせる。アメリカの宿で電子レンジ(micro wave)は当然の設備だった。
※N氏家族については、「日本の街・世界の地域」にあるシカゴを参照してください。
※2 例の階段とは同上のシカゴを参照してください。
3月20日月曜朝、予報通り雨。時差ぼけ解消で少し寝坊。朝は、”Subway”のパンにかぶりつく。再びエヴァンストンのN氏邸に駐車。CTAの24時間カードが使えるので、再びダウンタウンへ。ルーズヴェルト大学近くの楽譜店を探すが見つからず。昼はその近くのデポール大学が校舎1階で貸している店の一つ、Sbarroでラザニアとピザをほお張る。午後はダウンタウンの超高層ビル街のクラシックな建物の見物。主に外観だけ。ウェスト・マディソン街のセント・ピーター教会で休憩。マクドナルドでコーヒーとポテト。シカゴ川沿いに走る遊歩道を東へ。トランプタワーを見上げて、さらにノース・ミシガン街を散策。妻がリグレイ・ビルでジラデリのチョコを買う。外は寒く、買うものもないのに高級百貨店「ノードストローム」を散策。バスで(パスは時間切れだったのに運転手はOK!)ステート街近くまで戻り、庶民的なメーシー百貨店シカゴ(旧マーシャル・フィールズ)で娘が装身具の買い物。それから高架鉄道のパープルラインの急行でNoyes st駅に直帰。N氏にお礼を言って、モーテルへ帰る。
庶民派の百貨店”Macy’s chicago”。 旧”Marshall Field’s”時代のインテリアのままで良かった。
PHOTO copyright2017 TOMOMI MIURA
3月21日火曜朝、天気回復で晴れ。モーテルをチェックアウト。その前館内で急病人が出たらしく救急車(銀色?)。フロントの女性に聞くと、従業員が病気でとのこと。お見舞いを言って出る。国道45号(マンハイム通り)を南下。オヘアを右に見て、さらに40分近く。シカゴ南郊のカントリーサイドでインター・ステート(IS)55号線に入る。ここからほぼ1日、高速道の旅。先ずはイリノイ州中部のスプリングフィールドまで南南西方向に平原を走る。その手前の名もないインターを降り、マックで昼。スプリングフィールドからは西方向にIS72号を行く。ミシシッピー川を渡ったハンニバルで給油(油種はオクタン価87)。さらに国道36号を西へ。メイコンで今度は真北に。国道63号でカークスヴィルへ向かい夕刻に到着。街の手前の新しい平屋のモーテルで部屋前に車を横付け。長男の通うミズーリ州立トルーマン大学は北へ2キロ。7時に学寮の玄関で久しぶりの再会。その前から、大学構内で我々を見て声をかけてくる学生多数。皆明るい。長男の友達だった。再会後も長男は他の学寮にいる友を案内すると言い、我々を歩かせる。主に各国から来た留学生(スペイン・ヴェネズエラ・韓国・台湾・ヴェトナム・アルバニア)と米国の白人・黒人。娘が興奮。遅くなる前に退出し、3人で近くのステーキハウスへ。量を控えめにしたが、パンとホイップバターは持ち帰り。モーテルの部屋はダブルサイズのベッド2台が並ぶが、大きさを感じさせぬほどだだっ広い。熟睡。
ミズーリ州立トルーマン大学の構内。昼休みに学生がBBQで募金を募っていた。背後は学生会館。
3月22日水曜日、天気は寒くぐずつく。朝飯は番茶のような薄いコーヒーとマフィン・シリアルなど。先ずは大学のヴィジター・センター(VC)へ。19世紀中頃、地域の公立学校から出発した沿革が写真とパネルで紹介されていた。6000人の学生の内7割近くが州内から。残り2000人の中、留学生が400人。出身国は50近くに及ぶ。一番多いのが中国、二番目がヴェトナム、三番目が何とネパールだそう。お腹がすいたと言う娘の言で、学生会館のフードコートで昼。私は焼きうどんとチャーハンのアジア料理。食後に、学友を連れてきた長男と再度会う。ここで未納の学費を払いに二人で、大学の収納課へ。日本から持参したドルを払う。課題を達成! 夜にまた会う約束をして別れ、三人で構内を見学。だだっ広いキャンパスに同じく広さは日本の比でない校舎・図書館・庭園などを見る。その後、人口1万8千人の街カークスヴィルのダウンタウンを経由し(少しさびれていて降りる気にならぬ)、北側のウォルマートに買い物に。一旦宿舎に帰り、再度長男と学寮の半地下の広いロビーで会う。それにしても長男は社交的。次から次へと仲間を紹介。地元の白人学生ともうまくやっているよう。後は5月の帰国を待つとして別れた。
3月23日木曜日、この日は朝再び、大学のVCで昨日見た続き。モニターなどを見ている時も、キャンパス見学に州内から隣接州から家族連れで高校生が訪問。大学側の担当者と面接していた。そこからとって返し、この日は行き来た道を戻り、途中ハンニバルに寄り、この地で育ったマーク⁼トウェインの旧居を訪ねたりした。『トムソーヤーの冒険』もここが舞台。ダウンタウンも観光地のせいか、明るく観光客も多かった。ミシシッピー川の桟橋辺りも歩く。途中の踏切で長大編成の貨物列車と遭遇。昼はrumorという名のスポーツバーのような店でアメリカ料理?私はドイツ系移民が持ち込んだ、焼きソーセージと酢漬けのキャベツ(Blatwurst & Sauerkraut)を食べた。
昼食後、一路インター・ステートでスプリングフィールドへと戻る。しかし、シカゴへの帰路は途中のこの街で宿泊予約を入れていた。高速を降りてそのままダウンタウンへ。予約してあったマンション・ヴューという名のモーテルの位置が分からない。娘のアイフォンが役に立つ。マップの表示に英語の音声案内付き。あっさりとモーテルに到着。この晩は、スマホで調べたハッピ寿司という寿司屋へ。サーモンやカリフォルニア・ロールに舌鼓を打つ。ハッピ姿の板さんはコリアンだそうで、もう長くアメリカに滞在。今はこの街に根付き、経営しているそうだ。夜、貨物列車の汽笛が断続。うるさくて眠れない時もあった。
往きと帰りにミシシッピー川をまたいだ。イリノイ州とミズーリ州をわける川だ。 奥が上流となる。
PHOTO copyright2017 TOMOMI MIURA
3月24日金曜日。今回の旅で最も好天に恵まれた日。午前中は、人生の大半をこの街に暮らしたエイブラハム₌リンカンの跡を訪ねて、先ずは保存されているリンカンの家へと向かう。宿はスプリングフィールドの中心にあって、リンカン関連の歴史地区の中にある。チェック・アウトは正午だと言うので、荷を置いたまま徒歩で出かけた。ここでも先ずVCへ。受付で10時50分開始の予約をとり、待ち時間にVCのシアターで「スプリングフィールドでのリンカン」に関するショート・ムーヴィーを見る。落涙する両親を見て、それを訝る娘。VCを出て昔のまま復元された通りの真ん中に鉄製のベンチが置いてあり、そこに10人位のヴィジターが集まる。国立公園サーヴィス(NPS)のガイド、ジェフさんがお出迎え。「このうららかな3月の春の陽を浴びて、今日はまた良い天気になりました。それでは皆さんをリンカンの家にご案内しましょう」と挨拶。目の前の通りの角に面した2階屋へと入る。ゲストルームだの、居間だの、婦人や子供の寝室だの、階上階下を廻る。気になったのが鉄の箱のストーヴで、2階のそれと1階のとではデザインが違う。1階のが薪ストーヴと聞いたので2階のそれは石炭でも使っていたのか、ジェフさんに聞いてみた。いずれも薪ストーヴだと言う。大男のリンカンは斧での薪割を好んでいたと言う。そんなこぼれ話も聞かせてもらった。
スプリングフィールドのリンカンの住居。始めは平屋だったが、家族が増えて二階家としたそうだ。
宿に戻り、正午を前にすぐにチェックアウト。歩くには遠い街の東側、当時のグレート・ウェスタン鉄道の駅(Depot)へと向かう。リンカンはここで大統領就任のためワシントンに旅立つ時に、列車の端のデッキに立って、見送りの大勢の市民に向けて挨拶をした。「別れの悲しみを抱きながら、四半世紀以上も過ごしたこの街を去ることになります。この街で四人の子を産み育て、その一人を埋葬しました。私は今、ワシントンへ出立します。いつ帰って来られるのか、帰ってくることができるのかさえ、わかりません」。雨が降って来て聴衆は皆傘をさし、前かがみになって聞いていたという。駅舎は今も健在だった。その場所にしばし佇んだ・・・。
晴天は続いていたが、風が吹くようになった。市の郊外で二度目の給油をし、そこでハンバーガーを買い、向かいの市民公園の芝地にあるベンチ&テーブルに運び昼とした。午後は、IS55号をシカゴへと上る。その都会が近づいて来た頃、予想外に渋滞が断続し、エヴァンストンへの到着に遅れが出て来た。ISを降りることも考えたが、道に迷うかもしれず、そのまま都会の摩天楼を見上げる位置まで都心に近づき、それをかすめるようにして市の北側へと進む。一般道に下りてドラッグストアに入る用事を済ませ、N氏邸に到着したのは午後6時も過ぎていた。しかも娘の願いで、Wifiが使えないN氏邸から出てエヴァンストンの公共図書館まで電波を求めて出かけるというおまけつきだった。N氏夫人が作ってくれたのは、昨夜に続きお寿司だったが、これもおいしくいただけた。
エヴァンストンのノイズ・ストリート(Noyes St.) 。まっすぐ進めば、ミシガン湖に達する。
3月25日土曜日。天気は雨。N氏邸には、年末年始、長男がクリスマス休暇の時3週間近くもお世話になっていたが、その寝泊りした部屋で昨晩は熟睡した。N氏夫人が用意してくれた朝食には、ケールとか言う野菜のジュースが添えられ、みそ汁の朝食とは一味違ったものだった。それにしても居間の半分を占めるグランド・ピアノが目立つ。昨夜は妻も弾かせてもらっていた。これがsteinway & sonsで超高級。アメリカに定住する覚悟を決めた時、日本の家を売り、その資金で手に入れたのだとか。
ゆっくりしていたかったが、帰りのフライトは12時45分。9時半過ぎにはお別れを言い、オヘア空港へと向かった。レンタカーを返す時にガソリンを満タンにする契約で借りた。そこで覚えのある国道45号線で、空港近くまで来て探す。BP(英国石油)のスタンドで給油し、店の中で支払いをすると小銭が10セント足りない。肌の浅黒い南アジア系の店員さんが、その10セントはいらないと言って、一件落着。無事空港に着き、連絡バスでターミナル3へ。順調に手続きを済ませ、セキュリティーの内側にある土産屋などを冷やかす。ここでも買い物で10セント足りない時に、エクストラ・チェンジだと言って、よしとする店員さんがいたりして、アメリカの鷹揚さを思ったものだ。
定刻に出発したAA153便は、シカゴから北方へ飛翔。大地には晴天が広がり、窓外を眺めていると、青い湖に白い氷が見えて来た。五大湖の一つスペリオル湖だった。それから数時間後、窓外ではアラスカの北側、北極海をかすめてロシアのシベリアへと移り、そのまま一路南下。機の航路はオホーツク海の真ん中を縦断するコースだった。アメリカの航空会社がシベリア上空を経て日本へのフライトを飛ばすことに、時代の変化をつくづく思った。これが冷戦期だったら、ソ連軍機に撃ち落とされていたのではないか。もとよりそうしたコースをたどるのは航空燃料の節約のせいなのだが、米ロ関係は不和だと言う中でも、昔よりはるかに良好な相互関係が生まれていることを理解した。
眼下に見えるスペリオル湖を越えて北上。アメリカからカナダへと進む。
PHOTO copyright2017 TOMOMI MIURA
成田に16時過ぎに着き、慌ただしく帰宅への術を探した次第であ